はじめに
太宰治は無頼派の代表作家として、現在多くの人々に親しまれている。左翼運動からの脱落、麻薬に手を出し、四度にわたる自殺未遂、心中未遂を繰り返した挙句の死、愛人と私生児までもいた。だから、彼の人生は破滅的といえるもので、作品にもたくさん投影されている。 太宰治は、人間がわからなかった。津軽の新興地主の家に生まれ、「選ばれた」という意識を持つ彼は、同時に、他者と異なっているという劣等感をあわせもっていた。人間を理解できず恐れながらも、人間の愛に飢えていた太宰は、道化や破滅的な言動で他者に接するしかなかった。 人間が信じられず、絶望さえしていた彼は遺書という名目で作品を書き始めた。しかし次第に、自分を理解してもらおう、他者を愛そう、信じようとその決意表明的な作品を発表するようになる。『人間失格』は、太宰自身のそれまでの人生を戯画化した作品である。その成り立ちからみても、『人間失格』は太宰文学の核としてとらえることができよう。太宰の描いてきた数々の作品は、太宰という人間のひとつひとつの要素であり、『人間失格』は、その総合である。 この論文で『人間失格』についての研究を通して、太宰治の性格を分析したい。さらにこういう性格を形成する理由も分析しようと思う。
第一章 『人間失格』についての研究
太宰治の『人間失格』は『走れメロス』『津軽』『お伽草子』『斜陽』などと並び、太宰文学の代表的な作品である。『人間失格』も遺作として太宰治の自伝と認められている。この作品の主人公である大庭葉蔵は生まれつき“へり人”だと自認した。そのため、かつて不法なマルクス主義の社会団体に参加した。その後、女優と一緒に自殺する時、女性の方は死亡したが、彼自身は救われた。そのため、彼は殺人を教唆するという罪名でしばらく入獄され、罪人に成り果てる。結婚後、清らかな妻が他人を簡単に信用したため、汚辱された。このことによって彼は徹底的に崩壊していった。最後に大庭葉蔵は人間としての資格を喪失する人間になって、完全に感情に任せて事を進め、堕落する人生に向かった。薬物におぼれ、買春、自殺、それから、完全に他人が理解できなくなり、それと同時に人間を恐れるあまり、世界を放棄し、最後に精神病院に送り込まれた。
1.1 主人公葉蔵について 『人間失格』の内容は前にもすでに紹介した。それは遺作として太宰治の自伝と認められている。『人間失格』は、「はしがき」と三つの「手記」と「あとがき」からなっている。 「第一の手記」が、葉蔵という人物を総論的にとりあげたものとするなら、「第二の手記」、「第三の手記」は、葉蔵が実際に世の中に出たときの、実践編とでもいえるものである。そこには、学校や世間とぶつかりながら、「恥の多い生涯」を送っていく葉蔵の姿が描かれている。 主人公葉蔵の手記は、「人間の生活」が「見当つかない」として次のように書き出されている。 「恥の多い生涯を送つて来ました。自分には、人間の生活といふものが、見当つかないのです。自分は東北の田舎に生れましたので、汽車をはじめて見たのは、よほど大きくなつてからでした。自分は停車場のブリツヂを、上つて、降りて、さうしてそれが線路をまたぎ越えるために造られたものだといふ事には全然気づかず、ただそれは停車場の構内を外国の遊戯場みたいに、複雑に楽しく、ハイカラにするためにのみ、設備せられてあるものだとばかり思つてゐました。しかも、かなり永い間さう思つてゐたのです。ブリツヂの上つたり降りたりは、自分にはむしろ、ずゐぶん垢抜けのした遊戯で、それは鉄道のサーヴイスの中でも、最も気のきいたサーヴイスの一つだと思つてゐたのですが、のちにそれはただ旅客が線路をまたぎ越えるための頗る実利的な階段に過ぎないのを発見して、にはかに興が覚めました。 また、自分は子供の頃、絵本で地下鉄道といふものを見て、これもやはり、実利的な必要から案出せられたものではなく、地上の車に乗るよりは、地下の車に乗つたはうが風がはりで面白い遊びだから、とばかり思つてゐました。 自分は子供の頃から病弱で、よく寝込みましたが、寝ながら、敷布、枕のカヴア、掛蒲団のカヴアを、つくづく、つまらない装飾だと思ひ、それが案外に実用品だつた事を、二十歳ちかくになつてわかつて、人間のつましさに暗然とし、悲しい思ひをしました。」(「第一の手記」) 手記の冒頭のこの箇所には、葉蔵の心的な傾向があざやかに示されている。葉蔵は、実利的な階段に過ぎない停車場のブリッジを「ずゐぶん垢抜けのした遊戯」と思い込み、地下鉄道という実利的なものを「面白い遊び」と思い込んでいた。また、敷布や枕カバーといった実用品を「装飾」と考えていた。実用、実利に密着した生活をしている人を、葉蔵にならって「人間」と呼ぶなら、「人間失格」とはそうした生活から逸脱してしまう人のことでもあった。それは世間の規範(実用、実利)を、情緒的(遊び)にしか感取することができない人のことだった。 大人になるということは、遊びの場面を時間的、空間的に限定していくことである。だが葉蔵にはそれができない。葉蔵は手記の冒頭で、情緒的な関係を過度に求める人物として性格づけられている。人は共同的な規範性を媒介としない限り、他者と関係を結ぶことができない。他者との共通性が、他者を理解する基盤になっている。しかし、世間の規範を情緒的にしか感動できない葉蔵にとって、他者の内面は、うかがい知ることのできないものとしか感じられていない。 小説の内容を読んだら、葉蔵の道化する行為と真実の心理も矛盾していることに簡単に気づく。全文を通して書かれているのは、「道化」そのものである。ただし、この「道化」も二つに分けられて、一つは「笑わせる道化」で、もう一つは「頽廃な道化」である。葉蔵は心の底で力を尽くして自己否定しているときに、道化はありえないし、自分の価値を認める腕になる。一方、人間を恐れているのだが、家庭と社会から抜け出せないで反対に懐しんでいる。だから、「道化」は世間と繋がる唯一の手段になった。しかし、葉蔵も強い反逆する心理もあり、いつでも世間に反抗したいと思っていた。左翼運動からの脱落や、麻薬、何度とある自殺未遂、心中など、どれもこれも読者の前で掛け値のない頽廃的な道化で、心の中で絶望してどうすることもできない彼の様子が現れている。 「自分は怒っている人間の顔に、獅子よりも鰐よりも竜よりも、もっとおそろしい動物の本性を見るのです。ふだんは、その本性をかくしているようですけれども、何かの機会に、たとえば、牛が草原でおっとりした形で寝ていて、突如、尻尾でピシッと腹の虻を打ち殺すみたいに、不意に人間のおそろしい正体を、怒りに依って暴露する様子を見て、自分はいつも髪の逆立つほどの戦慄を覚え、この本性もまた人間の生きて行く資格の一つなのかも知れないと思えば、ほとんど自分に絶望を感じるのでした。」(原文) 以上の原文は、詳しい葉蔵の心理的な描写である。彼は自分の本物の感情を表した。しかし、これはただの真実の心理で、人間の前では示さなかった。世間を恐れていて、いつも本当の自分を隠していたからである。 矛盾している葉蔵の心理はとても緻密な書き方によって小説一つ一つの区切りに染みこんでいる。
1.2『人間失格』における「人間恐怖」の内実 主人公の大庭葉蔵は、周囲が何を考えているのか分からない「人間恐怖」を抱えて生きてきた。それは、幼少期から、大家族の家庭環境で育つという人間関係からくるものであった。葉蔵の抱える「人間恐怖」は、「人間の本質に対する怯え」であった。 作品内における「人間恐怖」の移り変わりは、最初、血縁関係のある家族、同居する人達に対するものであった。葉蔵は、人間との繋がりを持つべく、周囲に対して「人間恐怖」を隠すために「道化」を行った。 葉蔵は、中学校進学に伴い、東北のある都市に出た。そこでも「道化」を行っていたが、それは、竹一という、自分よりも能力が劣ると見ていた同級生に見破られる。そのことに葉蔵は衝撃を受けるが、その後「人間恐怖」の本質に向き合う方法を得る。それは、「お化けの絵」を描くことであった。「お化けの絵」とは、多くの画家達が抱える「人間恐怖」の本質を、自画像に表したものである。葉蔵は、竹一にそれを見せられ、感動することにより、「人間恐怖」を抱える自らを肯定し、自らも「お化けの絵」を描くことで「人間恐怖」を乗り越える大きな力を得た。 東京の高等学校に進学した葉蔵は、個人的に通う画塾で、堀木正雄という画学生と出会う。葉蔵は、堀木を「都会の与太者」とし、彼に「酒」、「煙草」、「淫売婦」、「左翼思想」を教えられたが、それらは既に「人間恐怖」に向き合う手段を得ていた葉蔵にとっては、かえって「人間恐怖」から背を向けさせるものであった。中でも、「女」との関係は、葉蔵に大きな影響を与えた。多くの「女」を引き付け、その中でも特に、三人の女達と深く関わった。彼女達は、それぞれ違う形で葉蔵の「人間恐怖」を封じる役割をした。 カフェで働く女給のツネ子には、お互いに金銭的に不自由な侘びしさを共有する親和感を感じることが出来たが、それは葉蔵を「心中」という負の方向へ導いた。雑誌編集者のシヅ子は、一人娘のシゲ子と生活していた。葉蔵は、シヅ子の元で毎日漫画を書きながら「男めかけみたいな生活」を送る。しかし、シゲ子の「本当のお父ちゃんが欲しいの」という一言により、竹一に「道化」を見抜かれた時と同じ「恐怖」を感じるようになる。 煙草屋の娘のヨシ子は、人を疑うことを知らない「信頼の天才」であった。葉蔵は、彼女の「青葉の滝のやうなすがすがしさ」が心の支えであったが、それは、彼女が他の男に姦通されたことで、「神社の杉木立で白衣の御神体に逢った時に感ずるかもしれないような、四の五の言わさぬ古代の荒々しい恐怖感」という神に対する畏怖を感じることとなった。これらから、葉蔵は、彼女達と過ごすことで、「道化」を演じる必要はなくなるが、特にヨシ子と過ごしてから、この世の存在を越える根源的な恐怖を感じることになったと言える。ところが、その計り知れない恐怖に立ち向かうことができず、アルコールとモルヒネに溺れる。更には、堀木に今の状況を見下され、葉蔵は完全に打ち破られてしまった。結果、病院に入れられ「癈人」となった葉蔵は、自己を喪失したのであった。作品の「あとがき」で、葉蔵と交流のあったバアのマダムは、「あのひとのお父さんが悪いのですよ。」と呟き、父親が、葉蔵に「人間恐怖」をもたらしたとした。[194]
第二章 太宰治の矛盾した性格についての分析
太宰の性格に見られる自負と卑下、野心と臆病、華やかさと陰鬱、狂騒と倦怠、好色と純情、骨太さと虚弱さといった矛盾性は誰の心にも存在するものだが、たいていは成長していくなかで、それぞれの両極を結ぶ線のどこか一点にその人らしい個性のありようが見えていくものである。本章は太宰治の矛盾した性格について詳しく分析する。
2.1 自負と卑下の矛盾 精神科医の米倉育男は太宰治を「境界性パーソナリティ障害」と診断する論文を書いた。そのはしゃぎっぷりや悪ふざけは、「淋しさ、頼りなさ、空虚感などが入りまじった抑うつ的な感情を防衛するもの」だと言われる。なぜ太宰は、そんなことをしなければならないほど寂しかったのだろう。米倉は、「太宰の場合は、母からというよりは、長い間『生母』と考えていた叔母から見捨てられるのではないか、という分離不安に基づく防衛として考えることができよう」と分析している。[195] 「自分は特にすぐれた人間」と万能感を持ったかと思うと、次の瞬間には「自分は最悪の人間」と落ち込み、安定したペースで仕事をし続ける友人などに嫉妬の情を覚える。自嘲的に見せつつ、太宰が実は芥川賞などの社会的な評価に固執し、師であり賞の選考委員でもあった佐藤春夫に受賞を乞う手紙まで出したことも知られている。 また、太宰が自己愛を持つ一面が注目されている。「この人々は、自己中心的で自らの自己愛を満足させる手段としてのみ他人と付き合い、他人を思いどおりに操ろうとする。それは、決して相手への深い思いやりがあってのことではなく、他人が自分に好意をもち、思いどおりになることで自己愛を満たそうとするものである。その人間関係は表面的で、他人への軽蔑感を抱いている。しかし、一見親切そうで温かみがあり、人の気を引いたり人使いがうまい。」[196] 彼は、いつも自信喪失や自己卑下と優越感や自負心との矛盾的な気持ちが同時に存在しているときこそ、揺れながら悩んでいた。
2.2 野心と臆病の矛盾 昭和十五年、東大独文科の学生だった堤重久と初めてあったとき、太宰は、尊敬する作家の前で緊張し、萎縮した堤の前でしばらく沈黙し、堤を恐怖に陥れた。その後、学生に接する時のいつもの気さくさをあらわし、すっかり打ち解けた後で、太宰は堤に「あれは、新顔の時の、おれのいつもの癖なんだ。五、六秒で、敵か、味方か、そいつを即決するのさ」と語ったという。[197] これは、愛読者であり、自分に対してひたすら恭順の態度でかしこまる学生に向けて気楽にいわれた言葉であるが、最初に敵味方を過剰に識別せざるを得ない太宰の臆病な人見知りがよく現れている。 人見知りがつよく、他人から敵意をもたれることに耐えがたい性格でありながら、太宰はまた「お山の大将」でなければ気が済まないところがあったことを堤重久は伝えている。幼いころから生家の大きさや秀才であることなどから自分を特別視してきた人間であり、文壇にでてからは天才と称されることもしばしばであった太宰は、常に驕慢の危険にさらされている人間だった。どんなに謙虚に振舞おうと意識しても、どこかに不遜なところが現れてしまい、それは、太宰に心酔する者以外には相当に嫌味で不快だった。[198] 小説家として、賞を取り、大成したいという野心を持っていましたが、生き方に対しては純粋に生きた矛盾した人間だったと考える。 2.3 消極面と積極面の矛盾 太宰治の生涯を見ると、津軽地方屈指の大地主の家の六男として生まれたが、これが逆に負い目となったということに気付く。また病弱な母とのつながりが薄く、外的世界との和解を困難にした。両親の愛が不足し、おまけに、大家族との単調な生活で、彼は非常に弱くなって、ややもすれば傷を受けた。四度目の自殺未遂もこれらの点と関係している。 誕生地は青森県で名声の大きい大尽の家庭で、居住するのは豪華な邸宅で、外出する時座る馬車の上に盛大な家の徽(鶴)があり、この一般人より一段抜きんでた豊かな生活は太宰治に幼いころから一種の名門出身という優越感を植えつけた。しかし、自家が周囲の貧しい農民と身の回りの小さい仲間の家から血と汗を搾り取り、豊かな生活を創立したことを知った後、彼はすぐに苦悩に陥った。 その上、彼はその時流行した民主主義、マルクス主義の思想を理解した後、ますます大尽の子としての恥辱と罪を感じる。大学に入った後、太宰治は家から送ってくる十分な生活費によって、退廃的な享楽にふける生活を過ごし、それと同時に、自分の出身を痛恨した。彼はこっそりとその時不法な共産党の秘密裏の活動に従事し、最後にマルクス主義の政治運動に身を投じる。以上述べたことは太宰治に消極的な影響をもたらした。 一九三八年は太宰治の一生の中で画期的な一年である。この年、太宰治は毅然として来る生活と決裂し、再生しようと決意した。彼は自分を甲州の御飯峠に禁固して、心身の回復を期待した。翌年、太宰治は石原美知子と結婚し、東京の三鷹に定住した。この時、彼の創作も更に一歩進んだ。『東京の八景』、『富嶽百景』等有名な短編を書いた。太宰治の生前に完成する八冊の長編小説の中の六編はすべてこの時期に創作したものである。これは恐らく彼の一生の中で最も健康な時期と言えよう。太宰治はきらきらと美しくて多彩な才気が現れると同時に、またユーモアがかなりある。明るい人だと友人に評価される。 以上述べたことから太宰治の性格において積極的な一面が見られると思う。
第三章 太宰治の矛盾した性格の原因の探究
太宰治の人間像を探るうえで、太宰の家、生い立ちはその根幹となるものである。太宰の「人間」に大きく関わっているものとして、外的要因では、生家、父母の在り方、乳母の存在、津軽の風土や人間性などがあげられる。また、内的要因では、他者との断絶(あるいは、とらえ方によっては甘えとも言えよう)、コンプレックスと自意識、あるいはナルシズム、エディプスコンプレックス的女性観などがあげられる。これらの外的要因と内的要因は相互に響きあって太宰治という人間を形成している。
3.1出自からの不安 平井謙の『太宰治論』では以下のように書かれている。「元来、太宰治は生まれながらにして、さまざまな負い目を背負いこんでいた。あのような家柄にうまれたのも、その長男ではなくて六男に生まれたのも、自恃と虚飾にみちた繊細な感受性を賦興されたのも、その負い目に押しひしがれて、たびたび自殺をはかったことも、その自殺に女性を巻き込んだことも、すべて太宰にとっては原罪的なコンプレックスとして、終生忘却することはできなかったはずである。」[199] そこから、死ななければならぬ、生きているのが罪の種なのだという思想が葉蔵の頭に浮かんだ。しかし、頻繁な自殺未遂のあと、彼は再び自殺しようという気持ちも失った。そこで見えるのは、彼が大いに既存の社会秩序に反対したり、富豪の生家を批判しながら、生家に負い目を抱いていた名門意識に支配される矛盾な性格を持っていることだ。 太宰治の文学精神――反逆と自己否定の芽生えは彼の特別な生い立ちと青春時期の経験にかかわっていると言える。名門の出身で津軽の風土で成長し、第六児として生まれた太宰は生まれながらにして名門意識を持たされ、それと同時に、強い卑劣感も持っていた。 誕生後、母が病弱だったため、乳母をつけられ、一年ほどして、乳母が去り、その後、当時、未亡人だった叔母に育てられた。このように、生後すぐ母の懐からはなされ、乳母、叔母、子守といった女性たちの手で養育されたことが様々な形で太宰の自己形成の基になったようである。一つにはスキンシップの欠如に伴う母性愛への飢渇感があり、もう一つは、その母にかわるものとしての叔母との親近感が、のちに自分自身の出生への疑問を抱かせる原因となったことである。 母性愛の欠如は、叔父やたけが、その代償となることである程度おぎなわれたようである。しかし、あらゆる子供にとって、母親の愛情は大事で欠かせないものである。母の不在は幼児の外界との和解を困難にし、太宰をいつまでも内側の女性的、肉感的世界にとどまらせ、そとの男性原理の支配する世界での自立を不可能にさせたのである。これが太宰治の「人間恐怖」の根源にあるものである。母性愛は太宰が生涯求め続けて得られなかったものである。
3.2社会からの不安 戦後流動的な情勢が、人間たちの文化意識、価値観念などに影響していた。新しい喜びや悲しみ及び矛盾にも気づいた。太宰治を始め、無頼派の作家たちのねじ曲がる感情は、ほぼこの突然に変わった戦後初期の現世生活に関係があるのだと思う。 太宰は敗戦によって、古くて悪い日本が滅亡し、新しい理想の世界ユートピアが実現されることを願っていた。しかし、やがて敗戦当初期待した理想と実際の現実が全く違っていることに気づき、激しく絶望するのである。理想と現実の違いは彼を矛盾の淵へ落とした。断念して自殺することも、その特別な時期において、彼の最後の反抗になった。
終わりに
日本、更に世界で有名な作家として、太宰治は深く知られている。太宰治の文学をよく理解するには、その作品をよく研究しなければならない。本論文『人間失格』を選んで研究して、自負と卑下、野心と臆病、消極面と積極面の三つの面から太宰治の矛盾性格を詳しく分析した。 ほとんどの研究者は太宰治を前、中、後の3時期に分けている。前の段階の錯乱、中期の健全、後期の衰退、それぞれ左翼の破裂する悪い時代、戦争の時代、戦後に対応する。そして、前期と後期を一つの全体と考え、消極的時期と称する。それに対し、中期は積極的時期と称する。 今後、太宰治のそれぞれの時期の代表作品について、分析と研究をしてみようと思う。これを今後の課題として展開していきたい。
謝 辞 この論文はまだ解明できない部分があります。私の能力が限られているため、太宰治を深く理解することが本当に難しいです。しかし、研究の機会があれば、より詳しく考察したいと思います。 この論文作成中、指導教官の王慧君先生からご多忙中にもかかわらず、私の研究に関して全般的に見ていただいたほか、研究の方法を示していただき、貴重なご指導をいただきました。研究に関する問題点を指摘していただいたほか、論文の全体構成から細部まで終始懇切丁寧なるご指導を賜りまして、心から感謝の意を表す次第です。論文を完成するにあたって、謹んで謝意を申し上げます。さらに、中間発表を通じて、九州外国語学院の先生の方々からいろいろなご意見をいただきました。ここにお礼を申しあげます。 協力していただいた皆様へ心から感謝の気持ちと御礼を申し上げたく、謝辞にかえさせていただきます。
参考文献: [1]奥野健男.『太宰治論』.[M].角川文库. 1984. [2]太宰治.『太宰治全集』.[M].筑摩書房. 1988 [3]杨伟.太宰治思想发展试论.[J].外国文学.1998.第2期. [4]贺耀明.“丧失为人资格”—解读太宰治的一生与文学.[J].吉林华桥外国语学院学报.2006.第1期. [5]野原一夫.『太宰治のことば』.[M].東京:株式会社 筑摩文庫.1998. [6]野原一夫.『回想太宰治』.[M].新潮社.1980. [7]小山清編.『太宰治研究』.[M].筑摩書房.1956. [8]亀井勝一郎.『太宰治研究』.[M].新潮社.1954. [9]平野謙.解説『現代日本文学全集』.[M].筑摩書房.1952. [10]笠原 嘉著.『青年期 精神病理学から』.[J].中公新書.1977-2-25. [11]谷沢永一.「太宰治『人間失格』の構成」.[J].関西大学「国文学」二四.1959-1 . [12]堤重久.『太宰との七年間』.[M].筑摩書房.1969. |