明治9年(1876年)3月に廃刀令が出、8月に金禄公債証書条例が制定されると、士族とその子弟で構成される私学校党の多くは、徴兵令で代々の武人であることを奪われたことに続き、帯刀と知行地という士族最後の特権をも奪われたことに憤慨した,本稿では史料を基にし、各探讨者の考えを踏まえ、自分の結論を下そうとする,中国人の探讨として、これまでに見られるものではない点、意義がある, 1.1 概略 明治10年(1877年)1月、大久保は政府に抗し続ける鹿児島を改革する決意のもと、先ず、鹿児島草牟田の火薬局と磯の造船所にあった弾薬や武器を大阪に移そうと図った, キーワード: 西郷隆盛 西南戦争 敬天愛人 二面性 はじめに 西南戦争と西郷隆盛に関わる探讨が多くある,明治5年の池上らの満洲の偵察を公文書で「満洲視察」と表現していることから見ると、この当時の官僚用語としての「視察」には「偵察」の意もあった), 同時に、私学校の生徒達を思想的に攪乱し、仲間同士を離間させることを画策する一団を東京から送り込んだ,西郷の影响について、大きく二説ある,功により、継嗣の寅太郎に侯爵を賜る,次弟西郷吉二郎は戊辰戦争で戦死した、三弟西郷従道は明治政府の重鎮で、四弟西郷小兵衛は西南戦争で戦死した, 西郷の兵力約3万のうち、1万3千が私学校員で占められた精鋭であった。
また、多数の巡査が一斉に帰郷していることは不審であり、その目的を知る必要があると考えていた,同じ士族出身の政府高官に不満のある鹿児島(旧薩摩藩)士族らは1877年(明治10年)、西郷隆盛(1827-1877)を中心とし、反乱を起こした,「いつまで士族たちをおさえてみても、政府は刻一刻とかれらを窮地に追い込んでくる,①積極的に関与したという説, これに対し、私学党は、すでに陸海軍省設置の際に武器や火薬・弾薬の所管が陸海軍に移っていて、陸海軍がそれを運び出す権利を持っていたにもかかわらず、本来、これらは旧藩士の醵出金で購入したり、つくったりしたものであるから、鹿児島県士族がいざというときに使用するものであるという意識を強く持っていた(注:『薩南血涙史』), 西郷家は薩摩藩の下級武士であったが、藩主の島津斉彬の目にとまり抜擢され、当代一の開明派大名であった斉彬の身近にあって、強い影響を受けた,明治6年(1873年)の政変で江藤新平、板垣退助らとともに下野、再び鹿児島に戻り、私学校で教学に専念する,。 |