「乾杯」とは日本人のように杯をあげて适量饮むことではなく、文字通り杯を乾かしてしまう事を言う.だから一滴も残らないように全部乾かしてしまわなければならない.最も理想的なのは全员と乾杯するという措施である.自分の右隣の人から一人ずつ乾杯して全员と酌み交すことである.当然のことながら、全员が「人数分マイナス1」の回数だけ乾杯することになる.なるべく全员が同量の酒を饮むと言うのが中国流の宴会の重要な作法である.しかし、こうやって酒を酌み交わしていても、絶対にやってはいけないことがある.それが第二のタブー「絶対に酔っ払ってはいけません」である. 中国人の宴会では、とにかくありとあらゆる口実を使って酒を饮まされる.しかし、どれだけ酒を饮まされても酔った様子を表に出してはならない.宴会が终わるまでシャンとしてはならない.すなわち、たとえ酒の场であっても絶対に紧张をくずさず、最後まで崩れない人こそが、中国の社会では尊敬されるのである.だから、うっかり気を缓めて泥酔でもしようものなら二度と宴会に呼ばれないようなる.日本人からすれば信じられないことかもしれないが、宴会の场に於いて酔うような人间は信頼でまじめな话をしてはならない」ということである.特に政治向きの话などはもってのほかである.同じようなことは欧米のパーティーでも言われるようであるが、中国の场合とかなりニュアンスが违う. 欧米の场合は思想信条が违う人がいると议论になってしまい、白けるから政治の话や宗教の话はしない方が良いという意味のようである.だが中国の场合、もし政治批判の话が飞び出した场合、それを闻かれた方は穷地に陥ってしまう.中国人は言质を取られるのを极端に怖れる.他人から攻撃されたとき、言质を取られていると逃げ道がなくなるからである.だから中国人はなるべく面倒なことになりそうな话は避けたがる.ところが宴会の场で、酔った势いで政治批判の発言をした人间は勿论弱みを握られるわけであるが、それを黙って闻いていたと言うのも同罪と见なされるのが中国社会の常识なのである.黙っているのは賛成の证拠だろうと言われるからである.かと言って反论を仕挂けるのもおろかしいことで反论をすればその発音によってまた言质を取られることになる.だから宴会の席に置いては絶対に政治の话をしてはいけないのである.小声で隣りの人と话をするのは何にか企みごとをしているのではないかと疑われるし、无礼なことだと思われる.马鹿话を大きな声でしなければならない. 日本人からすればこんな宴会のどこが楽しいのかと思うであろう.中国人だって楽しくて饮んでいるのではない.宴会とは娯楽ではなく自分がいかにしっかりした立派な人间であるかを证明するための、ある意味に於いては「戦の场」なのである.だから絶対に酔ってはならない、我慢竞争に胜ち続けることが、中国社会では尊敬される条件なのである.つまり中国人にとっての宴会とは、もう一つのビジネスなのである.来る日も来る日もパーティーに出つづけ、そこで酔いを见せることなく帰ることによって、他人の信頼を胜ち得ていく.これが中国社会の付き合い方なのである.何度も同じ人に宴会で会いその人物が酔わずにしかもいつもたわいのない话をしている姿を见て「なるはど、この人は一绪に仕事をしても安心だ」と判断するのである.だから中国人の社会において宴会に呼ばれなくなるというのは社会的な死を意味することである.あいつは羽目を外す、だらしのない奴だという烙印が押されると言うことなのである.まとめてみると、中国人の酒艺术は日本人のように日本料理を楽しむ或いは引き立てるために饮むものではなく、宴会を通じて自分を信頼させるために饮むものである.中国料理を楽しむ或いは生かすためのものではないという事なのである. 4. 风俗 4.1 生活习惯 中国人と日本人は顔つきもあまり変わらないし、汉字を共有してもいます.日本の艺术は中国から多くのものを得てきています.それだけにお互いに中身も简単にわかるように思いますが、そうはいかない.とくに表にあらわれない中身や意识や考え方など、日本と中国の间にはかなりの违いがあるようです.风俗习惯でも形は同じだが、中身は违うというものが多い.例えば、十二支は中国から渡って来たもので、动物に结びつけるのも十二支と同じです.だが、违うのが一つあります.猪年は日本ではイノシシ年だが、同じ「猪」でも中国の「猪」は「ブタ」、つまり「ブタ」年という意味です. |