英語では一般に人称代名詞とはhe, she, they, などを表します。この英語の人称代名詞は日本語でも同じく「彼は」「彼女は」「彼らは」などの人称代名詞と対応していると考えられています。しかし日本語の場合は英語の人称代名詞に当たるものは存在しないと考えた方がより正確であると考えられます。日本語においては英語の人称代名詞は別の語が別の形で機能しているのです。まずは英語の人称代名詞といわゆる日本語の人称代名詞と今まで考えられてきたものとを比べてみましょう。 (1) a. Tom said that he could run fast. b. トムは彼が速く走れると言った。 もしも英語の人称代名詞のheが日本語のいわゆる人称代名詞である「彼は」と一致するなら (1a) の日本語は (1b) と対応していることになります。 (1a) には確かに (1b) の意味にも解釈することができますが、一般には従属節の主語のheは主節の主語のTom を指していると解釈するのが一般的です。つまり (1a) は英語の人称代名詞he =「彼は」と想定した (1b) とは異なることになります。he = 「彼は」という仮説が間違っているということを示唆します。 言語学の中では日本語はいわゆる人称代名詞と呼ばれるもは音形のないゼロ代名詞が担っていると考えられています。英語のheとかIなどに当たる人称代名詞は日本語では音を持っていないゼロ代名詞のPROのようなものと対応していると考えられています。わたくしたちが中学校で教わった「彼は」とか「私は」とかいうものは英語のheとかIに対応した人称代名詞ではなくbookとかcatなどの実質名詞なのです。PROとは英語のto不定詞の前にあるような音を持っていない代名詞と考えられています。日本語ではこの音形のないゼロ代名詞が一般に英語の人称代名詞の役割を担っているので、よく日本語は主語を省く言語であると略论されるのです。しかし実際は主語を省略しているのではなく音形のないゼロ代名詞を使っているのです。 いわゆる今まで人称代名詞であると考えられてきた「彼は」とか「私は」というのが人称代名詞ではなく実質名詞であることを別の角度からみてみましょう。もしも英語のIが日本語の「私は」と一対一で対応していると想定すると次のような変なことが生じてしまいます。次の例文をみてください。 (2) a. I went to the USA. b. 私は合衆国へ行った。 c. 僕は合衆国へ行った。 d. 俺は合衆国へ行った。 (2) でみれるように (2a) の英文はいろいろな日本語に訳することが可能なのです。つまり最初の仮説である英語のI = 私はというのが間違っているということを示しています。(2a) の英文に対応する日本語はやはり音形のないゼロ代名詞を使った次の日本語の文であると考えた方が適切ではないでしょうか? (3) a. PRO合衆国へ行った。 b. 合衆国へ行った。 英語の人称代名詞であるIは日本語では音形のないゼロ代名詞であるPROと対応するので (3a) のようになりますが、PROは音形がないので実際には (3b) のように聞こえるわけです。このような音形のないゼロ代名詞がいわゆる人称代名詞の役割をしているのはなぜなのかはいろいろな説があります。一つ考えられるのは顕在化した人称代名詞を使わずに同じような機能を別の範疇がになっているからであろう。つまりいわゆる人称代名詞を使わなくても別の品詞が人称代名詞の機能を担えば人称代名詞は顕在化しなくてもよいのです。日本語ではよく動詞がいわゆる人称代名詞の機能を担っていることが多くあります。次の例文をみてください。 (4) a. I want to go to the USA. b. He wants to go to the USA. c. 合衆国へ行きたい。 d. 合衆国へ行きたがっている。 (4a) と (4b) の違いは英語では人称代名詞の違いとして現れています。一方、日本語では顕在的な人称代名詞を使わない代わりに述語の違いで (4a) と (4b) とを区別しています。このように英語と日本語とでは一つの違いが別の形式で表現されるということが多々あります。 |