菅原道真(845-903)は日本平安時代著名な学者で、漢詩人である。代々学者である菅原家に生まれた道真は、11歳で漢詩を作ることができたのである。菅原道真の漢詩を収録した『菅家文草』と『菅家後集』は平安前期における日本漢文学の最高峰だといわれる。『菅家文草』は道真11歳の著作を含め、漢詩文が600ほど収められている。『菅家後集』は漢詩を46首収め、太宰府流謫時代の体験と怨念を表現した遺言詩集である。本論文は上の二つの著作集を中心に、道真漢詩における「和習」を探索したのである。 「和習」は江戸時代の荻生徂徠によって『文戒』で提出された言葉であって、日本人が漢詩文を作る時に、日本語の影響によって表れた独特な癖や用法だと荻生が指摘している。その後、時代の変化によって、「和... 引言:
菅原道真(845-903)は日本平安時代著名な学者で、漢詩人である。代々学者である菅原家に生まれた道真は、11歳で漢詩を作ることができたのである。菅原道真の漢詩を収録した『菅家文草』と『菅家後集』は平安前期における日本漢文学の最高峰だといわれる。『菅家文草』は道真11歳の著作を含め、漢詩文が600ほど収められている。『菅家後集』は漢詩を46首収め、太宰府流謫時代の体験と怨念を表現した遺言詩集である。本論文は上の二つの著作集を中心に、道真漢詩における「和習」を探索したのである。 「和習」は江戸時代の荻生徂徠によって『文戒』で提出された言葉であって、日本人が漢詩文を作る時に、日本語の影響によって表れた独特な癖や用法だと荻生が指摘している。その後、時代の変化によって、「和習」の定義が豊かになる。道真漢詩には「和習」表現が多く見られている。まず、景物描写から見れば、道真漢詩にも、唐詩にも「残菊」、「白牡丹」、「桜花」といった表現があるが、日本と中国の風習が異なっているため、そのイメージが違っているのである。又、中日美意識の相異から、道真漢詩には、同時代の中国と違った、日本平安時代の独特な美意識を反映したのである。景物、美意識などの内容的な表現の他に、形式的にも「和習」も現れている。中国の唐詩に比べて、言語表現、漢詩のリズムのようなユニークな表現が多くあるのである。 菅原道真は醍醐天皇から「更有菅家勝白様」と賛美されたのである。中国伝統古典の世界に通暁して、空海と相ならんで抜群の詩人である。菅原道真の漢詩造詣が深い。だからこそ、道真の『菅家文草』と『菅家後草』での「和習」表現が誤用でなく、意識的に加えられたものであると分かった。最後に、道真の思想と主張を略论して、「和習」が生まれた原因は三つがあると分かった。第一は日本語の言語特徴からの影響である。第二は社会と文化的な原因である。第三は道真自身の原因である。 参考文献: ,日语论文网站 |