盆的变迁[日语外文翻译]ボン(盆)の変遷[日语论文]

资料分类免费日语论文 责任编辑:花花老师更新时间:2017-04-12
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译文:盆的变迁
释迦牟尼离开这个世界的时候一般被认为是纪元前四百八十五年,或者也说是三百八十六年。佛教的成立(这里是指释迦牟尼的教说)是抗衡后来的婆罗门教,印度教等等的宗教体系的产物。因为婆罗门教和印度教是印度的传统信仰和不可分割的关系,所以包含了和牲畜祭这样的民间信仰所共同的诸多礼仪。佛教的目的企在帮助个人的解脱和众人的救济,意味着,像这样的从民间信仰的诸多礼仪中逃脱出来。正如Danmapada(《法句经》)一百零六年~一百零八年所记载的那样,“比起每月千百回人为营造的祭祀,还不如,哪怕是一瞬间,提高自身修养的供养来得更让人身心舒畅。”“比起一年之中用牲畜供奉神灵的祭祀,还不如去尊敬那些行为正直的人们来得更有意义。”等等的名言例句,这些都记载在这本书里。
但是,从印度传来,经过西域还有中国,日语论文,然后传播到日本的途中,佛教一方面,教义变得越发单纯化,一边吸收着各地的民间信仰的元素,一边计划着将它慢慢渗透,这是件不可否认的事实。
我们把盂兰盆节的活动仪式作为例子来看一下。在日本的盂兰盆,日语论文,以每年的七月十五日为中心,为了便于祖先大人们的到来呀,已故者灵魂的到来,专门设立了盂兰盆架和施饿鬼棚架。这既是每户人家的祭祀仪式也同时是很重要的寺院祭祀仪式。柳田国男认为,盂兰盆是和新年(年末开始到年初)相一致的,一年有两次的祖先灵魂归来之日。但是,试着从这样的盂兰盆节的供奉品来看,一般有将大豆,酸浆果吊挂在盂兰盆架上,或者供奉一些夏季的当令的蔬菜什么的,又或者是有供奉不可缺少的挂面呀。还有供奉一些小麦,蔬菜等等的农作物产品的收获物,这样的仪式也是有的。更有除了盂兰盆架以外,设立一些“精灵架”,“无缘架”这样的专门迎接无缘佛的架子,这到底有什么样特殊的意思哪。
岩本裕认为,盂兰盆的说法的起源难道不是西域的栗特人语言中的urvan(灵魂)嘛,向以前的梵语ullambana(倒悬<绑住手脚,颠倒着悬挂>的意思)说提出质疑。从前盂兰盆节仪式的由来被认为是,根据在中国被创做出的义经《盂兰盆经》而产生的。这本经书里记载着,如“在七月十五日,僧人们自恣的时候”,夏季安居修行结束的自恣斋的法会上,为了“七世的父母以及现在的父母厄难中者”,举行供奉“百味五果”的祭祀仪式。所谓的自恣斋是印度的一种佛教祭祀仪式,也可以叫做“鉢和罗饭 ”(pravarana),在雨季,聚集在一个场所一起修行的众僧们,在快将近三个多月的夏季安居修行结束之时,将向许多人家去化缘而所得到的施舍物分配给众僧这样的仪式。在这个时候,目乾莲Maudgalyayana(释迦牟尼的十大弟子之一)在别的佛教弟子的塔= stupa(卒塔婆)参拜,供养这样的事。另一方面,在印度,目连尊者(=目乾莲)为了救助堕入了饿鬼道的众生们,或者是为了见到在摩利支天世界的父母,凭借自己的咒语的力量,往来于他界之间这样的说法也有。这到了在《盂兰盆经》里,说法则变为了,目连为了救助因为生前做了很多恶事而堕入饿鬼道的母亲,报答父母养育之恩。根据《盂兰盆经》的功德,是因为救助母亲,所以认为七月十五日是自恣的日子。印度旧历上夏天安居修行结束的那天,原封不动的传到了中国的旧历上,未必是我们所认为的七月十五日,之所以是把它认定为七月十五日,是因为,在中国,这天刚好和中元节是同一天。所谓的中元,是和正月十五的上元,十月十五的下元相对的中元,在道教中,规定着正月祭祀天官,十月祭祀水官,然后在中元节祭祀地官这样的事。对这个中元节的成立,有许多不同的说法,但是,都和祖先祭祀没有什么联系,从一开始是祭祀地灵以及地下的神灵等的活动仪式。在中国,把这一天叫做鬼到来之日。还有和水陆会相调和,也有在河边放莲花灯这样的仪式。在中国台湾,即使现在,作为鬼魂,孤鬼到来之日,会举行盛大的祭祀仪式进行普度。
那么我们在回到岩本裕的说法中,栗特语中的灵魂一词,Apastak语(用在古代波斯的锁罗亚斯德教的圣典中的语言)叫做urvara灵魂,可能跟描述植物,栽培植物语言的起源有相关联,作为连接死者的灵魂和收获祭祀的中心词语而让人深刻的思索。作为它的佐证,在现在的伊朗被举行的,在春分的时候,在各家用绿色的物品(sabzi),也就是我们所说的小麦的麦芽,作为供奉这样的活动仪式。即使在古代的中国,也有用种子生物(大豆,小麦发芽后的产物),在盂兰盆节用来供奉祭祀,这被记载在了《东京梦华录》(一一四七年)里。它很有可能跟日本人常用青柿子,青离子等,不能食用的未熟果实来供奉祭祀有很大的联系。因为联想到中国的中元节也有祭祀大地之神这样的活动仪式,所以也得出了“在包括栗特人的伊朗人的宗教之中,和祭奠死者灵魂的祭祀同时,作为收获祭的灵魂祭祀,和栗特人一起传到了中国,作为耕种旱田农业地带的收获祭巧妙的和中元节相结合,也因为佛教徒们将自恣的日子和中元节相关系,盂兰盆会的原型也就这么成立了”这样的结论。
在这之后的中国,七月十五日成为了作为地下灵魂和鬼魂归来之日,供奉祭品的日子。在日本,祖灵以及死去不到一年的亡灵,第一次在盂兰盆节上被祭祀,作为新佛归来之日被大家肯定。
原文:ボン(盆)の変遷
釈迦がこの世を去ったのは紀元前四八五年とも三八六年ともいられる。仏教の成立(この場合釈迦の教説)は後のバラモン教・ヒンズー教などの宗教体系に拮抗するものであった。バラモンやヒンズーの宗教はインドの伝統的信仰と不可分の関係にあったので、犠牲祭のような民間信仰と共通する儀礼を多く含んでいた。仏教が個人の解脱や衆人の救済をめざすものであることは、こうした民間信仰の諸儀礼からの脱却を意味するものであった。ダンマ・パダ(『法句経』)一〇六~一〇八にしめされているように、「月々千回ずつ祭祀を営む人より自己を修養した人を一瞬間でも供養するほうがすぐれている」「一年間神をまつり犠牲をささげるよりも行いの正しい人々を尊ぶことのほうがすぐれている」などのことばはそれを示すものであろう。
  しかし、インドから西域を経て中国そして日本へと伝播するうちに、仏教は教義的に純化していく一方で、各地の民間信仰的要素を吸収しながらその浸透を計ったことは否めない事実である。
例を盆行事にとってみよう。日本での盆は毎年七月十五日を中心に、ご先祖様がくるとか死者の霊が出てくるとして、盆棚や施餓鬼棚を設ける。これは、各家の行事であるとともに大事な寺院行事でもある。柳田国男は盆を新年(年末から年始にかけて)と合わせて、年二回の祖霊の去来する日とした。しかし、この盆行事を供物からみてみると、大豆やほおずきを盆棚に吊り下げるとか、夏にとれた野菜物を供える、またそうめんを欠かさずに供えるといった、小麦や野菜など畑作物の収穫物を供える行事ともとれるのである。さらに盆棚以外にも精霊棚や、無縁棚といって無縁仏を迎える棚を設けるのはどのような意味があるのであろうか。
岩本裕は盂蘭盆の語の起源を西域ソグド語のウルヴァンurvan(霊魂)にあるのではないかとして、従来のサンスクリット語ウッランバナullambana(倒懸<手足を縛って、さかさまにつるすこと>の意)説に疑問を投げかけた。従来盆行事の由来は、中国で作られたとする儀経『盂蘭盆経』によっているとされる。この経に「於七月十五日僧自恣時」とあるように、夏安居の終わりの自恣斎の法会に「七世父母及現在父母厄難中者」のために「百味五果」を供える行事であるとされている。自恣斎とはインドの仏教行事の一つ、鉢和羅飯pravaranaといわれるもので、雨期に一か所に集まって修業した僧たちが、その三か月に及ぶ夏安居の明けに家々を勧化して得た施物を衆僧が配分する行事で、その際、目乾蓮Maudgalyayana(釈迦の十大弟子の一人)他の仏弟子の塔=ストゥーパstupa(卒塔婆)に詣でて供養するというものである。一方、インドには目連尊者(=目乾蓮)が、餓鬼道に落ちている衆生を救うとか、摩利支天世界にいる父母に会うというなど、自らの呪的力によって他界を往き来するという説話があった。これが『盂蘭盆経』になると、生前の悪行によって餓鬼道に落ちた母を目連が助け、父母の恩に報いるという話に変わっている。『盂蘭盆経』の功徳により母を助けるわけであるが、それが七月一五日の自恣の日とされた。インド暦の夏安居明けの日をそのまま中国暦に移すと必ずしも七月一五日とはならないのであるが、これを七月一五日としたのは、中国でこの日が中元の日にあたるからであるとされる。中元とは正月一五日の上元、一〇月一五日の下元に対しての中元で、正月に天官を、一〇月に水官を、そして中元には地官を祀るものと道教で決められているものである。この中元節の成り立ちにはいくつかの説があるが、祖先祭祀とは関係がなく、そもそもは地霊とも地下の神ともいわれるものを祀る行事であった。中国ではこの日は鬼の来る日といわれ、また水陸会とも習合し、水辺に蓮花灯を流す行事もあったという。中国の台湾では、現在でも鬼魂・孤鬼のくる日として盛大な行事、普度がある。
さて岩本裕の说にもどると、ソグド語のウルヴァンは、アヴェスタ語(古代ペルシアのゾロアスター教の聖典に用いられていることば)のウルヴァラーurvaraという、植物・栽培植物をあらわす語に語源的に関連があり、死者の霊と収穫祭を結びつけるキーワードとして考えられるとしている。その傍証として、現存イランで行われている春分の際に各家で緑のもの(sabzi)、すなわち麦の芽を供える行事がある、古く中国でも種生(大豆や小麦を発芽させたもの)を盆に供えるという記事が『東京夢華録』(一一四七)にあり、日本でも青柿・青栗など、食用にならない未成熟な果実を供えるのと関係があるのではないかとしている。中国の中元節も大地の神を祀る行事と考えられるともとれるわけで、「ソグド人を含めてイラン人の宗教の中に、死者の霊魂を祀る祭祀であると同時に収穫祭であるウルヴァンという祭祀が、ソグド人とともに中国に将来され、畑作農業地帯の収穫祭として中元と結合し、これを仏教徒が自恣の日を中元に結びつけたことによってウラボン会の原型が成立したのではなっかたか」と結論づけている。
 その後中国では、七月一五日は地下の霊や鬼がくる日として盛大に供物を供える日になったが、日本では祖霊、それも亡くなって一年たたず、初めて盆にまつられる新仏の戻ってくる日として定着をみたのである。
このようにインドの鉢和羅飯の行事にまで関連する盆行事も、西域を経て中国・日本と伝播する間にさまざまな信仰なり思想なりをになって流入してきたことがわかる。日本においては祖霊祭祀的な面が強められていると思われるが、施餓鬼の語にあるように、餓鬼に食を施すという観念も強く、無縁仏など往生できないとする霊を各家でも祀っている。盆に幽霊がでてくるのもその例であるが、中国における鬼を迎えるという観念と通ずるものである。また供え物からみると、前に述べたように小麦製のそうめんを供えていること、また中元の贈り物として小麦でつくったまんじゅうやそうめんを贈ることなど、畑作の収穫祭的側面もある。しかもこの盆期間にみられる収穫祭的要素をみると、これが非稲作的艺术の系譜をひく儀礼の変化したものか、また岩本のいうように西域や中国で行われていた畑作儀礼がウラボン思想といっしょに流入してきたものか、その解明は今後の課題といえよう。
このように仏教行事といわれる盆ひとつをとっても、それはヴァリエーションに富んでおり、多様な解釈を可能にしている。またそのように多様な解釈が可能であったからこそ仏教が民間に定着できたともいえよう。

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