以东亚国际联系为视角看壬辰战争/東アジアの国際関係からみる壬辰[日语论文]
资料分类免费日语论文 责任编辑:花花老师
更新时间:2017-04-13
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以东亚国际联系为视角看壬辰战争/東アジアの国際関係からみる壬辰戦争
摘 要
16世纪,以明朝为中心的东亚朝贡体系受到了日本的直接挑战。这就是发生在1592年至1598年间的壬辰战争(中国方面多称为“万历朝鲜之役”,日本方面一般叫做“文禄、庆长之役”,朝鲜韩国方面多称“壬辰倭乱”、“丁酉再乱”。近年出现了“壬辰战争”的这一统一称谓)。丰臣秀吉统一日本之后,借口“假途入明”,试图先吞并朝鲜,进而征服明朝,在明朝确立自己的长久统治,妄想最后统一整个东亚。从唐代的以华为师,到明代前期的自命属国,日语毕业论文,中日联系始终保持着一个相对稳定的格局。但到了16世纪末,终结战国乱世的丰臣秀吉向朝鲜发起了侵略战争。而作为宗主国的明朝,接受了属国朝鲜的求助,派兵援朝抗日,日语论文题目,中日两国在朝鲜半岛展开了大规模的军事对抗。最终,明、朝联军取得了胜利,捍卫了正义。但于此同时,明、朝双方也付出了惨痛的代价,而作为退回本土的丰臣政权,在日本国内逐渐衰亡,最终为德川政权所取代。这场战争对整个东亚国际联系产生了重大的作用。本文将对战前、战中、战后的各个相关问题进行具体探索,试图在整体上把握16世纪末的东亚三国的国际联系。
关键词:壬辰战争 朝贡 东亚国际联系
要 旨
十六世紀、中国を中心としての東アジアの朝貢体制が日本に直接に挑戦された。これはすなわち1592年から1598年にかけての壬辰戦争(参戦した明、日、朝三国では、それぞれ「万暦朝鮮役」、「文禄.慶長の役」、「壬辰.丁酉倭乱」(1592~1598)と呼ばれている。近年、この戦争を東アジア三国の戦争という視点から「壬辰戦争」という統一な呼称をつけたのである。)である。1590年、豊臣秀吉は長く続いた戦国乱世を終結した。日本の統一を実現した豊臣秀吉は、海外の朝鮮や中国やインドをも支配下に置こうと考えるようになった。彼はまず朝鮮を屈服させ、それから明を征服し、更にインドを手に入れ、アジア全体に君臨しようとした。唐の時代から中国を師とした日本は、室町幕府の時代になっても中国の一属国となり、中日関係は相対的に穏やかな状態だと思われる。ところが、戦国時代を経って日本の統一を遂げた豊臣秀吉による壬辰戦争は、朝鮮の宗主国である明朝の軍事介入によって明・日・朝三国間の東アジア全体を巻き込む大戦争となった。その結果、日本側は秀吉の死によって全線撤退し、明、朝連合軍は最終的に勝利を得た。しかしながら、この戦争は各参戦国に大きな影響を与えた。正義側の明、朝両国はかなり大きな被害を受けた。一方、不正義側の日本では、豊臣政権が衰落したとともに、徳川家康の勢力はいっそう膨大になり、最終的に豊臣政権を滅亡させた。本稿は壬辰戦争の戦前の国際情勢、戦争中の和戦の紛争、戦後の諸国への影響などの諸問題を略论し、16世紀末の東アジア三国の国際関係を把握しようとする。
キーワード: 壬辰戦争 朝貢 東アジア国際関係 |
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