序論 中日両国は一衣帯水の隣国である。中日交流を遡れば、正式な友好往来は漢代から始まり、三国、両晋、南北朝を経て、唐代に至り真っ盛りになった。中国の唐代というと、これはすべての中国人が誇らしく感じている輝かしい時代であり、中国のシンボルとも言われている。盛唐時代のことに深い興味を持っているし、高校の歴史の授業で、中国唐文化が日本に対する影響について勉強したので、私はこの時代の中日歴史については大体知っている。当時の日本人は貿易を通して、先進国の中国をよく知っていた。唐の文化を学び、それを取り入れる目的で、遣唐使は中国に来て、唐の国子学で、中国語を含め、さまざまな専門知識を勉強した。中国の建築、彫刻、絵画、刺繍、書道、音律などが広く日本に伝えられ、中国文化が日本文化に与えた影響が大きいものである。中でも仏教における影響が大きいのは周知のことである。これは日本の仏教制度や思想や仏教経典に影響があるばかりでなく、日本の建築芸術や音楽及び彫刻にも深い影響がある。それに、遣唐使制度の実行につれて、仏教文化も早く伝えられて、日本文化発展の基礎を定めるのに大きく助けた。 唐の仏教はいったいどんなものか?それは日本仏教にどんな影響を与えたか?そして、現在の中日関係に対してどんな意味を持っているのか。以上のことを知りたいので、本論文は「唐の仏教が日本仏教に対する影響」というテーマに決めて、浅いながら、わずかの考察をしてきた。
本論 第一章 唐の仏教と日本仏教の歴史背景の紹介 1.1 唐の仏教について 1.1.1 唐の仏教 唐の仏教は唐の高祖武徳元年(618)から哀帝天祐四年(907)までの仏教を指す[10]注1。中国仏教の発展から見ると、唐の仏教は中国仏教の歴史で最も重要な部分である。なぜかというと、インドの仏教は十三世紀になって、インドでほぼ絶滅したのであるが、当時に無傷で保存されてきた中国仏教、特に大乗仏教は中国を通して、世界各国へ伝えられたのである。 1.1.2、唐の仏教の起源 中国への仏教の伝来は、1世紀頃と推定される。伝来に関する説は幾つかあるが、最も有名なのは、後漢の永平10年(67年)の明帝と洛陽に纏わる求法説である[11]注2。また『後漢書』には、楚王英の伝記に仏教信仰に関する記録がある。インドから伝わってきた仏教は、中国社会に溶け込む間、しだいに中国仏教へと変化していった。白馬寺 中国の隋唐時代は、シルクロードを経て伝来したインドの仏教が中国的変容を遂げ、空前の発展を見せた転換期である。禅・浄土・天台・華厳・密教など、今日の私たちが知っている「宗派」というものの姿も示された。皇帝中心の統一国家と仏教の関係、中国独自の教学注3、民衆に広まった信仰の姿を通じて、隋唐時代時代の歴史に刻まれた仏教興隆の様子を明らかにした。 1.1.3 唐の仏教の発展 六世紀末、隋王朝が中国を統一した。そして短命に終わった隋に次いで七~一〇世紀に東アジア全体に勢力を拡大したのが唐王朝であった。この時代は様々な宗派が相次いで誕生し、それらの論争も華々しく繰り広げられ、中国仏教史の絶頂の時代になった。 唐王朝に入ると、王室による寺院建築などの保護を得て全盛期を迎え、三論・天台・華厳・浄土・法相・禅など多くの宗派が生まれた。そのなかで最も勢力を伸ばしたのは禅宗、とくに南禅であった。また、この時代、仏教信者の多い宦官勢力に影響されて、仏教を崇敬する皇帝が多く現れた。唐の則天武后から玄宗の時代にかけて、大雲寺・竜興寺・開元寺などの官寺が全国に建立されたが、この制度は日本に伝わり国分寺となった。 唐代は、律令格式が整備され、それに基づく体制が整えられた時代であった。仏教関係の条目の基本であった道僧格をはじめ、出家者の犯罪等、仏教に関係する事柄についても規定が設けられていた。唐の中期頃から、中央には僧録が、地方には僧統・僧正が設けられ、仏寺や僧尼の管理・統括にあたった。唐の中期以降、仏寺で催される年中行事に、一般大衆が参加するようになってゆき、民衆のために、教義を平易に親しみやすく説いた俗講が起こった。仏教が民衆の間に浸透していくにつれて、仏教は娯楽化していった。寺院は民衆にとっての文化の中心地であるとともに、娯楽の場でもあった。特に年中行事が催される時には、多くの人々が集まり、それにともなって市も開かれるようになった。しかし、唐代後半になると、仏教が迫害を受けるようになった。迫害のうち最大のものは、845年の武宗による廃仏[12]注4であった。武宗の会昌年間(841年 - 846年)の会昌の廃仏と呼ばれる仏教弾圧事件を転換点として、仏教の勢力は急速に衰えることになった注5宣宗以降、仏教は復興するようになった。廃仏より復興はするが、この時期、唐朝自体が安史の乱以降、各地の節度使勢力によって中央集権的な求心力を失っていたこともあり、往日の長安を中心に繁栄した様子が再現されることはなかった。。そのなかでほとんどの宗派は衰退し消滅していった。その後生き延びることができたのは禅宗と浄土教だけであった。但し、弾圧自体は武宗の治世のみで取りやめられ、次の 唐の仏教は、東アジア全域に伝播し、渤海・朝鮮・日本・ベトナムを包括する東アジア仏教圏を形成した。唐代の仏教こそが中国仏教の完成形態であり、日本などの周辺地域の仏教に与えた影響も大きいものであった。 1.1.4 唐の仏教の特色 唐の仏教は四つの特色がある。それは同一性、国際性、独立性と系統化である注6。 隋唐時代(581~907)に入ると、政治が分裂から同一になってきた。唐の仏教もそうである。南北の往来が昵懇にするにつれて、仏教自身の理論と宗派が唐の時代に統一になった。 隋唐時代に、中国仏教の地位はインド仏教と比べると、見劣りがするが、インド仏教に次ぐ地位をしていた。それに、唐代の中国は当時の先進国だけでなく、アジアの中心地でもあった。当時の外国人は仏法を求めるため、インドの代わりに中国へ行く。国際性から見ると、唐の仏教がインド仏教より重要であると思う。唐時代の仏教は勢力が寺院の僧に集中してた。和尚が当時の民衆の民間信仰になっていた。当時の仏教が中国文化の付属品ではなくて、自立したものであった。 インドの仏教にはいろいろな部派があるので、伝えられた経典もそれによって異なる。そして、それらの経典を整理するため、当時の法師が「教相判釈」[13]注7の方法で、仏教のいろいろな部派と経典を系統的に整理した。だから、その時にいろいろな宗派が現れた。 1.2 日本仏教について 1.2.1 日本仏教の起源 『日本書紀』によると、日本の仏教が伝来したのは飛鳥時代、552年(欽明天皇13年)に百済の聖明王により釈迦仏の金銅像と経論が献上された時であるとされている。しかし、現在では『上宮聖徳法王帝説』を根拠に538年に仏教が伝えられたと考える人が多いようである。実質的には主に朝鮮半島・百済からの渡来人・帰化人が仏教を伝えたという。 1.2.2 日本仏教の発展 仏教がはじめに日本に伝えられたとき、ひどい仕打ちを受けた。しかし、隋唐時代には日本仏教が中国仏教の影響を受けて、盛んになった。その時、名山で寺院をたてて、日本の山岳仏教注8が出できた。そして、政治との繋がりも薄くなって、日本仏教が政教一致から政教分離になってきた。 伝えられた仏教は仏を崇拝する崇仏派(すうぶつは)の蘇我氏(そがし)注9と聖徳太子注10の支持を得て、当時の都を中心に繁栄した。仏教も政治勢力に利用されながら、権力者に支持・保護されて徐々に広まった。 日本に仏教を根づかした立役者の聖徳太子は中国仏教を習得するため、遣隋使を派遣して経典を取りよせ、仏教国としての基礎を固め、国の文化を高め、国力を富ませました。また、聖徳太子から奈良時代の各天皇まで一貫した意図により、仏教を奨励した。仏教をこの目的のために国家機能の一部として取り込んだ。公費で寺を造営・管理し(官寺)、僧侶は官僚としての身分を与えられ(官僧)、僧侶や寺を管理する法律を作った。したがって、僧侶の役割は、国家の安泰を祈祷することが第一の目的となった。奈良時代に国家の統制が厳しくなるにつれ、民間へ仏教はあまり広がらず、また国家の権力と深く結びついたため、政治に介入する僧も現れ、仏教界は腐敗を招いた。平安時代に天台宗と真言宗はともに国を守る仏教としての役割を果たしたが、それだけではなく、授戒の権限を国家から取り戻して、民衆を救済する実践仏教の基礎となった。 1.3 仏教の伝播に貢献をした人 1.3.1 その時に仏教の伝播に貢献をした中国人(代表:三蔵・鑑真) 紀元7世紀の最も重要な高僧は、玄奘三蔵(600年 - 664年)である。唐の国禁を破って天竺(インドの古称)へ仏典請来の大旅行を決行した。629年に長安を出発、西域を経由してインド、マガダ国のナーランダー僧院へ至り、シーラバドラ(戒賢)に学ぶ。広くインド国内の学者を訪ね、多数の経典を得て、645年に帰国した。彼の旅行記『大唐西域記』は小説『西遊記』の素材ともなった。彼の請来(しょうらい)した仏典は、唐太宗(李世明)の庇護を受けて、組織的に漢訳が進められ、後世の東アジアの仏教の基盤となった。玄奘がもたらしたインド大乗仏教の新潮流「唯識仏教」は、一世を風靡するようになった。この影響で、初唐には律宗、華厳宗が、少し遅れて禅宗、真言宗が起こり、これらの諸宗は唐玄宗の治世に最も隆盛となり、教理においても、ほとんど密教に吸収されかかったインド仏教を凌ぎ、中国独特の仏教として栄えていた。 紀元742年ごろ、鑑真(688~763)は玄奘・一行(683~727、大慧禅師。真言宗伝持八祖の第6)と、中国の仏教の三大法師の一人として、名を馳せていた。彼は唐の垂拱2年(持統2年)、揚州江陽県に生まれ、俗姓は淳于である。14歳で智満(唐の僧、鑑真の父親の師父)について得度し、大雲寺に住む。18歳で道岸(654~717、唐の僧、菩薩戒を受ける和尚)から菩薩戒を受け、20歳で長安に入り、翌年、弘景(634—712、南山律宗を開いた道宣の弟子)について登壇受具[14]注11し、律宗・天台宗を学ぶ。律宗とは、仏教徒、とりわけ僧尼が遵守すべき戒律を伝え、研究する宗派であるが、鑑真は四分律に基づく南山律宗の継承者であり、4万人以上の人々に授戒を行ったとされている。揚州の大明寺の住職であった742年、唐に渡った日本僧栄叡、普照らから戒律を日本へ伝えるように懇請された。紀元743年、鑑真は渡日を決意した。その後、日本への渡海を5回にわたり試みたがことごとく失敗した。753年12月20日に薩摩坊津の秋目に無事到着し、実に10年の歳月を経て仏舎利を携えた鑑真は宿願の渡日を果たすことができた。鑑真は日本で、戒律を講じて、経典を説いたので、日本の仏教文化に及ぼした影響が大きいのである。そして、鑑真が持っていった中国の文化芸術が、うまく消化、吸収されて、天平文化の一構成部分になった。天平文化の核心は仏教文化である。鑑真は中日両国の仏教交流に大いに寄与した。 この時代の各宗派の状況は次のように挙げられる。善導(613年 - 681年、浄土宗浄土五祖の第3、浄土真宗七高僧の第5)が浄土教を大成した。紀元8世紀には、不空(706年 - 774年、真言宗付法八祖の第6、伝持八祖の第4、四大訳経家の1人)が密教を大成した。不空の弟子の恵果(746~805、真言宗付法八祖の第7、不空三蔵の弟子で、空海の師)の密教は、真言密教として日本の空海に伝えられることになる。 1.3.2 その時に仏教の伝播に貢献をした日本人(代表:最澄・空海) 東アジア各地に広がる仏教思想・文化のほとんどが中国仏教を源流としている。その歴史の中でもっとも華やかなのは唐の時代である。その時、日本は遣唐使の派遣によって、中国仏教を持ち帰るようになった。遣唐の留学生は、一般的には二種類に分けられる。つまり、留学生と学問僧である。空海や最澄はその時の著名な留学僧である。 最澄(さいちょう・767~822)平安時代の僧であり、日本の天台宗の開祖である。俗名は三津首広野(みつのおびとひろの)であり、先祖は後漢の孝献帝(こうけんてい)に連なる登萬貴王(とまきおう)であり、応神天皇の時代に日本に渡来したといわれている。最澄はさらに深く仏教を学ぶため、804年に遣唐使にしたがって唐にわたり、天台宗の教えを受けて、翌年帰国した。日本で、天台宗という新しい宗派を興した。死後、朝廷から伝教大師とおくり名された。真言宗の「東密」に対し「台密」と呼ばれる。最澄の天台宗桓武天皇の支持を得るが、それが旧仏教勢力を敵に回すこととなる。だから、比叡山に戒壇(正式の僧になるためのきまりをさずける特別の壇)をつくることは、奈良仏教の反対で、彼が生前にはみとめられなかった。 空海(774~835)は、平安時代初期の僧。弘法大師(こうぼうだいし)の諡号(921年、醍醐天皇による)で知られる真言宗の開祖である。俗名は佐伯 眞魚(さえきのまお)である。空海は804年、留学僧として入唐した。恵果の教えを受け、真言の秘義を会得した。日本天台宗の開祖最澄(伝教大師)と共に、今日称される奈良仏教から平安仏教へと、転換していく流れの劈頭に位置し、中国より真言密教をもたらした。能書家としても知られ、嵯峨天皇・橘逸勢と共に三筆のひとりに数えられる。空海の真言密教は、その神秘的な教説を受けて、天台を上回る勢いで広がった。真言宗は、同じ頃日本に伝えられた天台宗系の密教の「台密」に対し、「東密」と呼ばれ、平安時代を通じて教勢はいっそうひろく、教理、儀式、仏教芸術上での各方面への影響は大きかった。 留学僧の中には、日中両国の仏教発展に対して、貢献をした人がほかにもたくさんいる。 玄昉は日本に於ける法相六祖の一人で法相宗の学問僧である。彼は出家して義淵(ぎえん)(奈良時代の法相宗の僧)の弟子となった。717年に入唐して法相宗の智周(ちしゅう)について学んだ。やがて唐の玄宗に召見され、三品の位に准じられ紫衣(しえ)(袈裟の別称)を賜った。735年に帰国して、日本へ法相宗を伝えた4番目の人(第四伝)とされる。彼は道鏡(奈良時代の法相宗の僧・義淵の弟子)と共に空海以前の密教すなわち雑密僧でもあり、呪術(じゅじゅつ)を重視した、また変化観音信仰を日本に広めた先達である、特に千手観音に対する信仰が篤く、「玄昉願経」すなわち「千手陀羅尼経」を千巻写経している、この陀羅尼経を様々な修法に使用したとされる。皇帝 それから、遣唐使の留学僧として唐に渡った興福寺の栄叡(ようえい)は、普照(ふしょう)とともに鑑真を訪問した。栄叡は途中で病死したが、普照は鑑真とともに帰国した。井上靖の「天平の甍」では彼らが入唐してから鑑真とともに帰国するまでのことを描いていた。 それぞれの有識者によって、唐の文化が日本に広められたのは可能になった。日本もその後、仏教文化が栄えるようになった。
第二章 唐の仏教が日本仏教に対する影響 2.1 日本の仏教思想に対する影響 平安時代の中ごろ、仏教が滅びる暗黒時代、すなわち末法(まっぽう)[15]注12の世が始まったと考えられる。末法思想は、中国では唐代に盛んとなり、三階教や浄土教の成立に深い関わりを持った。国が衰え人々の心も荒み、現世での幸福も期待できない。このような人々の状況から、ひたすら来世の幸せを願う浄土信仰が流行した。遣唐使の一員としての円仁(794年- 864年、第3代天台座主、入唐八家の一人)は入唐の際に五台山竹林寺を訪れて、法照(747-821、唐の僧、浄土宗5祖の第4)の流れを汲む念仏を日本に持ち帰った。これは五会念仏とも五台山念仏ともいわれ、独特の声明による称名念仏が特徴である。これが日本の称名念仏の源泉となった。観心念仏と善導の称名念仏を合わせ、浄土思想になった。その思想は芸能など日本文化への影響も大きい。 2.2 日本の仏教制度に対する影響 日本においては、唐代以前に、一部分の中国の律令をすでに取り入れていたが、大化改新の後、日本は唐から正式に全面的に律令を学び続けた。日本では仏教の発展に伴い律令法の中に僧尼の統制を定めた法令(僧尼令)が導入された。日本では「鎮護国家」の発想の下、「僧尼令」や僧綱・度牒制度が導入された。律令制で定められた僧正・僧都などの僧官は官僚組織の一部分になった。当時、出家は税を免除されていたため、税を逃れるために出家して得度を受けない私度僧が多く、出家といえど修行もせず堕落した僧が多かった。そのため、唐より鑑真が招かれ、戒律が伝えられた。この戒律を守れるものだけが僧として認められることとなった。その結果、仏教界の規律は守られるようになった。この時から、日本で戒を授ける制度が正式に確立された。同時に、律宗の基礎が打ち立てられ、鑑真が日本の仏教の律宗の開祖になったわけである。それで、仏教が日本で一段と発展し、日本の仏教の体制も根本から完備したものになった。 2.3 日本の仏教寺院の建築芸術の面に対する影響 唐招提寺(とうしょうだいじ)という立派な寺院は759年(天平宝字3)鑑真が戒律道場として創建した。唐招提寺は、中国の寺院の構造を種本として、建てられた。したがって、この寺院が中国の盛唐の建築の風格を持っていて、とても雄大である。その後、唐招提寺を種本として、建てられた寺院が日本にいっぱいある。木造の建築が多くなった。日本の伝統建築は木造で、中国の盛唐の建築と比較にならない一面がある。建築の外観から言っても、構成から言っても、和風の寺院が質素であるのに対し、唐風の寺院がはなやかで規模も大きく、文化交流などいろいろなイベントを行なうことができるところである。そればかりではなく、唐招提寺は日本の民間建築にも影響を与えている。『日本建築観感』(作者李徳金)によると、日本では、海辺や山地で建てられた家屋が、東京の家屋を除いて、たいてい一つのモデルで、一つの色である。それは屋根が黒い石灰のかわらで、外壁も黒い石灰の材料であるということである。それらの特徴が唐風の特徴であることは私たちもよく知っている。 2.4 日本の仏教音楽に対する影響 インドに発祥した仏教音楽は、中国に渡り漢訳されたり、新作が作られたりするなかで中国化されてゆき、5~6世紀の仏教伝来とともに声明(しょうみょう)[16]注13として日本に伝えられた。日本の伝統音楽の一つの声明は真言(しんごん)や経文などに節をつけて唱える仏教儀式の伝統的声楽曲であり、日本音楽の原点とも言われる。 東大寺大仏開眼で行われた四箇法要(しかほうよう)は伝来当時の古い姿を残した声明であった。平安時代初期に最澄・空海がそれぞれ声明を伝えて、天台声明・真言声明の基となった。天台宗・真言宗以外の仏教宗派にも、各宗独自の声明があり、現在も継承されている。声明は口伝(くでん)で伝えるため、現在の音楽理論でいう楽譜に相当するものが当初はなかった。そのため、伝授は困難を極めた。最澄や円仁が入唐し、新たに密教系・浄土系の声明を日本に伝えた。最澄が建立した比叡山延暦寺はこれまでの声明を包含しつつ、天台声明として独自のものを確立していった。天台声明の実質的な創始者は円仁であり、10年間の唐留学中に唐代の仏教儀式を深く研究し、総合的な声明体系を確立した。平安時代の中ごろ、大衆向きの仏教音楽ははやっているので、仏教も日本全国で普及している。 平曲・謡曲、民謡、浄瑠璃などの音曲は声明の転化といえる。声明が単旋律音楽に与えた影響は大きい。
2.5 日本の仏教経典に対する影響 日本の経典の多くは中国から伝えられた漢訳の仏教経典を種本として翻訳されたものである。華厳(けごん)経は、インドで伝えられてきた様々な経典が、3世紀頃に中央アジア(西域)でまとめられたものである。中国では華厳経に依拠して地論宗・華厳宗が生まれ、特に華厳宗は雄大な重重無尽[17]注14の縁起を中心とする独特の思想体系を築き、日本の真言律宗の形成、日本仏教にも大きな影響を与えた。日本では審祥生没年不詳、奈良時代の華厳宗の僧、法蔵から華厳を学ぶ)が大陸より華厳宗を伝来し、東大寺で「探玄記」による「六十華厳」の講義を3年に及んで行なった。東大寺は、現在華厳宗の本山である。( 2.6 日本の仏教彫刻に対する影響 仏教伝来とともに中国の彫刻芸術も日本へ伝えられた。その時から、日本の仏教彫刻が著しい変化を見せた。奈良県金堂本尊の弥勒仏坐像は7世紀後半にさかのぼる作であり、日本最古の塑像(そぞう)と言われている。日本では、塑像の作例は奈良時代に集中しており、木彫が彫刻界の主流となった平安時代以降の塑像の作例はまれである。塑像は奈良時代前期に唐から伝来し、奈良時代後期に盛行するようになった。それに、乾漆像(かんしつぞう)の仏像もその時に多くなった。当麻寺 乾漆造とは、東洋における彫像制作の技法の一つであり、麻布を漆で張り重ねたり、漆と木粉を練り合わせたものを盛り上げて像を形作る方法である。乾漆造の源流は中国にあり、中国では「夾紵」(きょうちょ)あるいは「ソク(土扁に「塞」)」と呼ばれた技法である。[18]注15乾漆造には「脱活乾漆造」と「木心乾漆造」がある。平安時代前期の仏像の中には、木彫り像の一部に木心乾漆技法を併用して表情、装身具などの細部を形作っている例も多い。日本固有の銅鋳や木彫と比べれば、乾漆特有の柔らかな肉付けを行い、衣の襞も起伏が小さく,総じて静かでおだやかな印象を与える。 仏教伝来のおかけで、日本の彫刻は技術の面でも、芸術の面でも、高められたと思う。
結 論 中国と日本の友好往来は漢代から始まり、三国、両晋、南北朝を経て、唐代に至り真っ盛りになった。日本は遣唐使の派遣で唐を中心とする東アジアの国際情勢の情報と先進的な唐文化の摂取を目的としたが、両国関係が安定した八世紀以降は後者の比重が大きくなった。遣唐使は200年以上にわたり、当時の先進国であった唐の文化や制度、そして仏教の日本への伝播に大いに貢献した。唐の仏教文化に通じた留学僧は、日本の仏教を整備する上で不可欠であり、その意味で遣唐使は日本仏教の繁栄を支えていたのである。 今の日本は経済においても、文化においても、世界で影響がある先進国であると思う。日本仏教は唐の時代の輝しい仏教文化を吸収した上で自分の特色のある仏教文化を形成した。もちろん、当時の日本は唐から仏教を学ぶだけでなく、広くて深い唐文化の中からいろいろな文化を取り入れて、特色のある日本文化を形成した。さて、今日の日本はすでに小国ではなく、世界の経済大国になっている。現在、ちょうど中国は唐時代の日本と同じように、日本から学ばなければならないものがたくさんある。中国が再びあの盛唐のように時代繁栄するためには、中日友好を一層促進する必要がある。そのために、私たちは遣唐使のような精神で一生懸命頑ばらなければならないと思う。 「唐の仏教が日本仏教に対する影響」というテーマの研究がさらに深まり、中国と日本の友好がさらに発展することを願う。
謝辞 思い起こせば、この卒業論文を書く際、私は学問のみならず、多くの貴重なことを見につけることが出来ました。それは人間として生きて行く上で非常に大切かつ重要なことであり、個性を重視し我々を信用してくださった先生がたのおられる、このでなければ得られなかったものと思われます。 本论文を作成するにあたり、指导教師缪先生から、丁宁かつ热心なご指导を赐りました。ここに感谢の意を表します。
文献参考 [1] 中国佛教协会主编 『中国佛教史略』 [M] 北京:知识出版社,1986 [2] 李德金 『日本建筑观感』[M] 北京:人民日报海外版,2005 [3] 本間紀男『天平彫刻の技法―古典塑像と乾漆像について』[M] 日本:雄山閣出版 1998 [4] 木宮泰彦『日中文化交流史』[M] 东京:日本大修館出版社 1955 [5] 速水侑 『平安仏教と末法思想』[M] 吉川弘文馆2006 [6] 杨民康『论佛教传播史晚期的音乐本土化-傣族和日本佛教音乐的比较』 [J] 普门学报 [7] 中西和夫『日本净土教义礼的音乐特性』[J] 普门学报 [8] 『日本古建筑艺术漫谈』[EB/OL] |