はじめに 経済や科学技術が速やかに発展するにつれて、文化の変化のスピ-ドも速くなっている。伝統節句も知らずのうちに大きな影響を受けている。伝統節句は伝統文化で大切な役を果たしている。そして、伝統節句の保護と発展はますます注目されている。優秀な伝統節句の保護と発展をどうすればできるかは重要な問題になると思う。 日本では、昔から三月三日は雛祭りである。女の子の成長や幸福を願う行いで「桃の節句」とも言う。「桃の節句」というのは、旧暦の三月三日で、現在の四月上旬にあたり、ちょうど桃の花が咲くころだったからである。また、桃は、昔から邪をはらう霊木とされており、「生命力」「不老」「平和」の象徴でもあるから。女の子が始めて迎える桃節句を「初節句」と言われる。「いろいろな文献で日本の雛祭りを調べた末、この節句は中国の伝統の節句―上巳の節の影響を受けたと気づいていた。」[48]しかも、中国にも雛祭りがある。しかし、今では大勢の人はこれらの節句をだんだん忘れてしまっている恐れがあると筆者が心配している。何故中国伝統の祭日をきちんと守らなくて、逆に外来の祭日を覚え、賑やかに迎える人は多くなっているのか。 筆者が中日のひな祭りについての論述を通して、中日文化や中日の伝統の節句などをどのように守るかという疑問を解明したいと思う。
第一章 日本の雛祭りについて 1.1雛祭りの由来 日本では、雛祭りの歴史はとても古い。雛祭りの起源は平安時代中期(約1000年前)にまで遡る。その頃は三月初めの巳の日に上巳の節句といって、無病息災を願う祓いの行事をしていた。その時、陰陽師を呼んで天地の神に祈り、季節の食べ物を供え、また人形に自分の災厄を託して海や川に流すのである。また、その頃、上流の少女たちの間では「紙の着せ替え人形」で遊ぶ“ひいな遊び”というものが行われていた。ひいなとは人形のことである。紙などで作った人形と、御殿や、身の回りの道具をまねた玩具で遊ぶもので、いまの“ままごと遊び”のようなものである。長い年月の間に、こうした行事と遊びが重なり合って、江戸幕府が3月3日を祝日に設定したことで大衆も盛んにお祝いするようになった。それで現在のような雛祭りとなった。 1.2雛人形の由来 雛祭りを祝う活動の中に、欠かせない物が雛人形である。古代から日本人は、人形を作り、祈りを込めていたことは、多くの出土遺物から明らかになってる。 平安時代には、人々は3月上巳の日(3月はじめの巳の日)に人間の形をした形代や人形を作り,それで身体をなでたり息を吹きかけたりして身のけがれや災いを移し、川や海に流し捨てたのである。「形代」は、身代わり信仰の一つで、人間の身代わりとして3月の上巳の節句に身のけがれや災いを人形に移し代わらせて、川や海に流して子どもが無事に成長できるようお祈りするものであった。形代の素材は、木や紙や草が使われ、それを川や海に流すことで禊祓(みそぎはらえ)が成立した。形代の流れが分化したものと考えられるのが「天児(あまがつ)」「這子(ほうこ)」と呼ばれる人形である。これは子どもが生まれた時に贈られる身代わり人形 である。平安時代には、出産の際の死亡率が高かったので、命を持っていかれないよう、枕元に身代わりの人形を置く風習があった。人形とは、身代わりという意味である。この風習は、自分の災厄を引き受けてくれた人形を流す「流し雛」へと発展し、今も残っている。子どもが無事に育てる願いを込められたこの人形は、三歳を迎える迄枕元に大事に置かれ成長を見守った。また、雛人形のひなとは、小さくてかわいいものという意味がある。この形代の祓い行事が現在も行われる流し雛の由来であり、雛人形の起源の一つです。この3月上巳の日がやがて室町時代ごろに3月3日に定まっていた。紙の雛から、豪華なお雛様を飾るようになり、宮中で盛大にお祝いをするようになったのである。それが宮中から、武家社会・裕福な家庭や名主の家庭へと広がっていき、今のひな祭りの原型が完成した。段飾りが飾られるようになったのは、江戸中期のことである。昭和に入ってから、今のような雛人形の形になった。 雛人形は外観が豪華であるだけではなくて、人形の意味や据える方にもたくさんの謂れがある。人形は専門の棚に置かれる。そして、棚は必ず奇数の棚である。伝統の人形棚は七段になって、その他は三段と一段になる。「段飾りの最上段には、内裏びなの男雛(お殿さま)と、女雛(お姫さま)が置かれる。普通は、向って左にお殿さま、右にお姫さまを飾る。二段目には、三人官女が 並べる。これには両側が立つものと、まん中が立つものとのふた通りがある。もし、座っている官女が一人なら、それをま中央に配置し、立っている官女が一人なら、それをまん中に置く。三段目は、五人囃子の席である。これは雅楽の楽人の時もある。四段目には随身を飾る。随身は向かって右が通称左大臣でおじいさん、左が通称右大臣で若者が置く。五段目には、仕丁あるいは衛士を飾る。七段飾りのときは、六段めと七段めの飾りに、はっきりした決まりないようであるが、食器や箪笥、お化粧道具などは段の上に、お駕籠や御所車は下の段に置くと調和が取れる。今一番人気あるのは三段飾りである。その次が親王飾り、七段飾りと続く。」[49]マンション暮らしの方が多く、大きな雛人形を飾るスペースが無いため、七段飾りはなかなか出ない。 雛人形は立春頃から二月中旬までに飾る。飾る前日には桃酒やひし餅などの飾物をお供えする。そして前日の晩もしくは当日に、両家の両親や友人を招き縁起の良いご馳走でもてなす。雛人形は遅くとも三月中旬までに片付けたほうが良いと言われている。『仕舞い遅れるとお嫁に行き遅れる』と言い、これは『片付けの出来ない娘はいいお嫁さんになれないよ』という意味で、年長者からの気持ちが込められている。 1.3現在の状況 雛祭りは今に至って発展してきて、すでに多くの現代の元素を溶け込まれていた。現在、日本の各地で、大量に雛人形飾りを公開したり、特色ある飾りを飾ったり、少年少女、又は成人の男女が雛人形に扮したりする祭りなどが、この期間中に開催される。 「勝浦町の雛祭りは生名の人形文化交流館において、開催される。会場では、2万体以上のひな人形が飾られ、なかでも高さ約7mの巨大なひな壇が目玉となっている。ひな人形は日本全国から寄せられたものである。 日本の千葉県にある勝浦市では毎年の二月の下旬から、雛祭りの人形の展覧会を開催して、多くの観光客を招いている。雛祭りは地元の観光業界の支柱となっている。 須坂市内の各地において、「須坂の町の雛祭り実行委員会」によって、開催される。期間中は百数十箇所の商店や美術館、博物館にお雛様が展示され、ピンクののぼり旗が目印となる。」[50] 雛祭りは日本の1つの伝統の節句である。各地はこの伝統の節句をもっと良く保護して伝承するために一生懸命努力している。 1.4日本の雛祭りの伝承の原因 日本の雛祭りは中国から伝わったが、その後も長い歴史を経てから本土の文化に溶け込み、そして、日本なりの雛祭りへと進化していった。そして、さまざまな祭祀活動を行って、地域の特色に富んで、旅行や経済の発展を促進している。 1.4.1特色がある祝賀活動 日本各地が雛祭りを行われる祝賀活動の中に、最も独特な祭りは群馬県で伊香保温泉区の『真人ショー』である。ここで、宮詰める人形は1群の活発で可愛い子供に取って代わる。子供が真人ショーの上で出演することは多くの家長が誇りに思われる。そして、真人ショーを開催の2日間、当日の活動はきっと当地の子供から完成しなければならない。東京などのその他の都市の子供は翌日まで待つことしかできない。このような形式は当地の子供達を1種の優越感を与える。彼らは群馬県が東京などの大都市に比べて更に愛すると感じて、さらには当地の子供が郷里に対する誇りと名誉心を高めることができる。 1.4.2経済建設との関係 雛祭りは日本の伝統の文化の伝承だけではなくて、更に経済を繁栄する宝物である。この17年歴史を持っている真人ションと現地の観光資源がしっかり結び付けて、現地では最も知名度を備える旅行プロジェクトになっていた。雛祭りの時、群馬県に来て休日を過ごすのは素晴らしい選択とは言える。紛れもなく、雛祭りは現地の経済を促進するために巨大な貢献を持っている。「話によると、毎年3月に群馬へ旅行してきて、休日を過ごす観光客が勢いに上昇していく。2006年の時、3800人の観光客が伊香保温泉区へ雛祭りの真人ショーの出演を観覧して、今の人数は更に6000人まで激増する。ある日本の観光客は、声がない人形の祝福を比べて、真人ショーは更に雛祭りのテーマを表現することができると言った。」[51] 雛祭りは全国的な節句であるが、しかし各地の祝賀の方法がそれぞれ異なるため、各地の観光客に観光しに来るように引きつけて、現地の観光業の発展を動かして、そして経済発展を促進するようになっている。 1.4.3政府の支え 市政府は積極的に雛祭りを地方のマークにするために力を注んでいる。関係部門は観光客にもっといい便利さを提供するために、雛祭りの時、甚だしきに至ってはバスを増えて派遣する。雛祭りをきっかけにして、当地の旅行の記念品と海鮮の品物という小売業も大きい発展を獲得する。ほかは、記念のため雛祭りを創造する歌もたくさんある。その中では文部省の歌に収められたものもある。 これらの民間活動は日本政府と地方政府の支えを得て、もっと多くの人が当地の風土と人情が分かるようになった。地方の経済発展を動かすために、地方政府の官吏が存分に特色の伝統活動を利用して、当地の各種の資源を結び付けて、できるだけ当地の知名度を高める。今日の日本では、多くの伝統活動は没落されるのではなく、かえって一層に盛んに行われている。
第二章 中国の雛祭りについて 2.1雛祭りの各説 中国では、“雛祭り”は特定の日ではなくて、“雛祭り”と呼ばれる日はいくつもある。例えば、"上巳節"、“端午節”、“七夕祭り”は“雛祭り”とも呼ばれる。 「中国では、上巳の節も一つの伝統の節句である。起源の初期、三月三日になると、人々は川辺で厄を祓う行事を行って、香りのいい草を水で浸して、そして、その水を使って入浴した。その後、男女は一緒に外遊して楽しむようになっていた。それで、また雛祭りともいう。」[52] 「旧暦五月五日は中国民間の伝統の節句―端午節である。民間風俗によって、この日に少女たちはこの日に魔よけの札や、ザクロの花を、男の子は香嚢と五色糸をつけ、入りした女の子は実家へ戻って親友を訪ねるという習慣があるということである。だから、この日も“雛祭り”と呼ばれる。」[53] 「なぜ七夕祭りは雛祭りというのは、この日を最も重要に思う人は女の子であるから。七夕祭りは牽牛織女の物語から生まれた節句であった。織女は手芸にすぐれ、機織が巧みな娘で、この日に女の子は牽牛と織女のニ星を祀って技芸の上達を祈る乞巧奠という行事が行われた。」[54] 「重陽節はもっと漢民族の伝統の節句である。漢魏以来人々は飲菊酒やお菓子食いや登高行楽などを節句活動の中心にする。明清時代になってから北方地域では嫁入りした娘は実家へ戻ってお菓子を食べる風俗はある。それで、「雛祭り」とも呼ばれる。」[55] これらの中国伝統の節句はひな祭りとも呼ばれることを知っている人はいかにも極稀であろうと思う。 2.2現在の状況 「現在、四川省の広元市は九月一日を雛祭りとして決めている。話によって、中国歴史では唯一の女皇帝ぶこうは正月二十三日に広元という地方でうまれた。およそ、唐代中後期から广元地域の婦女子たちはこの日に集中して、祝い活動を行っていた。婦女子たちは舟を争ったり、歌ったり、非常に賑やかであった。これらの活動は代々の人々を通して今まで伝わってきた。もう、風俗になった。」[56]現在の広元の雛祭りは伝統的な習慣と現代的な元素を組み合わせて、伝統的な祭りを除いて、写真美術の展覧会などの活動開催している。毎年の雛祭りは商品の展示会のシーズンになっている その外、伝統に対する記憶を呼び起こるために、上海師範大学は雛祭りを祝う活動を行っている。2005年から今になって発展してきて、ますます注目されている。今、雛祭りはすでにキャンパスを出て行って、“上海東方の雛祭り”になる。 また、2007年から、国家は法律を制定して、清明などの伝統の節句を法定休日に決めた。以前は、節句を祝う時、人々は依然として仕事や学習などで忙しく、これらの節句についての考えが薄かった。しかし現在、節句になると休日が取られて、人々はますますこれらの節句を重視するようになった。 現在、伝統の節句や風俗習慣などはますます注目されている。多くの大学はすでに関係課程を開いて、これらの伝統が再び人々の生活の中へ溶け込むと筆者は信じる。
第三章 中日の伝統の節句についての保護 3.1共通点 日本であろうと、中国であろうと、伝統の節句を保護するのは政府の支持に離れない。政府は伝統の節句の保護と伝承の上には肝心な役割を果たすと思う。伝統の節句は歴史からなったものであるが、しかしその形成は民衆の力のほかには、行政の力もとても重要である。その盛衰は政府の主張、反対と一定の関係がある。政府は強力に伝統の節句を育て上げるべきで、伝統の節句を国家の法定の祭日に入れ、立法を定めて節句を保護する。法律は節句を保護しながら、文化の発展を促進する。 日本では、各地は雛祭りを祝う時、盛大な祝賀活動を開催する。これらの地方の特色がある活動と現地の観光資源がしっかり結び付けて、多くの人を観光に来るように引きつけて、経済効果を持ってきたとともに地方の知名度も高める。中国の広元の雛祭りも同じである。当地で開催した活動が多くて、たくさんの観光客を引き付けてきて、当地の経済発展を動かす。 日本であろうと、中国であろうと、伝統の節句を保護するとともに、その努力を通じてきっと経済の発展も促進できるに決まっている。 3.2相違点 日本では、同様に雛祭りを祝うので、各地の祝賀の方法は同じではなくて、たいへん特色がある。しかし中国では、多くの地方は伝統の節句を祝う時、祝賀の方法はだいたい同じである。例えば、端午の節句、みんなはすべて粽を食べ、竜船を競って、地方の特色は強くない。各地は十分に当地の文化の資源を利用するべきで、観光業も同時に盛んに発展できるだろうと思う。 伝統節句の守りは民衆に行事を大切にし、守る自覚意識を目覚めさせる。このような自覚意識があればこそ、伝統節句は有効的に保護される。何といっても、政府の仕事は、ただ規則や制度を制定して宣伝するなどの措置によって民衆たちに伝統節句を保護する重要性を意識させる。最も根本的なのはやはり民衆が積極的に参加することであると思う。民衆たちの参加がなければ、結果が収められない。それに、この中で一番重要なことは青少年の参加である。日本では、色々な祝日や祭りの伝統の踊りとか、音楽とか、参加者は主な青少年である。日本の子供たちは小さい頃から、伝統節句の活動に参与することができる。しかし、中国では、青少年を主とする祝賀活動はそれほど多くない。もし子供らの担体がないなら、伝統節句を絶えず再現させることもできないし、多くの文化要素が消えてしまうかもしれない。 私たちは伝統の節句の文化の内包を掘りだすべきである。私たちは節句を祝う時、まずこの節句の歴史、発展、影響を了解する。節句を長い間には伝承し続けるために、私達はまずその歴史をはっきり了解して、伝統の節句の文化をよく覚えなければならない。時が経つにつれて絶対に忘れてならない。これはその国の文化の精髄であり、永遠に守らなければならないもっとも重要な伝統文化の一つでもあると思う。 この伝統文化をどのように守るかいろんな方法があると思う。たとえば、発達したマスコミを十分に利用することや、今の社会はネットワーク化の時代と思われ、これらの手段を利用して、この大事な伝統文化を急速に有効的に宣伝できるはずである。私たちはその実地に行き、民俗文化を撮影して、ビデオやマスコミやインターネットを通じて、この国の特色が現れる伝統節句の民俗文化を人々(特に若い人々)に紹介して、伝承してもらい、そして、若者によって世界中の人々にまで知られることができると思う。
おわりに
伝統節句は伝統文化の重要な部分として存在している。中国の伝統の節句が多くあるが、心に残るようなものはあまり多くないようである。今の時代、伝統の節句の保護と伝承はますます社会に重視されている。伝統の節句を保護するのに、私たちはどのように伝統の節句と現代社会の融合を重視して、発展と伝承することを促進するのかという課題は我々伝統を伝承することを担う若者だけでなく、伝統文化と伝統節句を研究する学者にもしきりに解決しなければならない問題であると筆者が思う。私たちは清明の時墓参りをして、端午の時粽を食べ、中秋の時月餅を食べるばかりでなく、この伝統節に含まれる深い意味を重視しなければならない。もし改めて大事にしなければ、これらの伝統の節句は遅かれ早かれ消えてなくなってしまう恐れがあると思う。私たちは消える時やっと後悔し始めるようになることができない。この伝統節句を保護する時、私たちは日本の伝統文化へのいろいろな保護方法を手本として我が国なりの独特な保護手段を持たなければならないと思う。
謝 辞 卒業論文の指導教師として、賈小妹先生がご多忙にもかかわらず、何回も精緻なご指導、ご添削をしていただいたおかげで、この卒論が順調に出来上がりました。また、大学時代に、私を見守ってくださった諸先生のご指導に心から感謝の意を表したいと思います。大変お世話になりました。 この場を借りて御礼を申し上げます。
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