xはt音かもしれない。 さらに、100がmomo、1000がti、1000がyoroduということで、3系のm、5系のt、4 系のyが繰り返される。子音が少ないとするには構造性が感じられる。倍数から残され た7と9はnanaとkokoというようにそれなりの類似性がある。 以上の考察のままでは、ほとんと「と」だ。そんなことを主張したいわけではない 。わかるのは完全な構造の解明ではないにせよ、倍数の計算原理がこの数詞に潜んで いることは間違いないということだ。 だから、その倍数構造がどのような算術に活かされていたのかと問いを出してみた いのだ。 この先はやや「と」が入るが、古代の浜辺のマーケットでは半裸の商人たちが、「 これがpi、これがpu、これがmi、倍のmu」と計算していたのだろうと私は思う。それ は、どういう算術なのだろうか。倍数を原理とした商用計算はどのように可能だろう か。 もう一点の疑問は、こうした計算がポリネシアのどこかに残っているかだ。これが わからない。"Numbers from 1 to 10 in Over 4500 Languages"(参考)をときたま眺 めるのだが、類似の数詞構造をもった言語はない。あるいは、だからこそ、日本語の 数詞は日本語というより極めてマーケット性の強い言語アバカスだとしたい気持ちに なる。 古代マーケットでもそうだが、マーケットは基本的にバランス(等価交換や収支) によって成り立っているので、倍数原理がこのバランスのために利用されていたと思 われるのだが、わからない。 身体語については、めが眼と芽、はなが鼻と花、といった作物との関連がありそう だが、こちらはさらにわからない。ついでにどさくさで言うが、稲作というのは日本 の古代では交易のための商品として発生したものだろうと思う。稲作をしてコミュニ ティに富を蓄え国家ができるというモデルは抜本的な間違いだと思うが、私が死ぬま でにそうした見通しいいの古代理論はできるのだろうか。無理かな。
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