日本人宗教观过度混沌的理由/日本人の宗教観がカオス過ぎる理由[日语论文]
资料分类免费日语论文 责任编辑:花花老师
更新时间:2017-04-12
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译文:日本人宗教观过度混沌的理由
这些神道、佛教、道教、伊斯兰教、儒教(供奉先祖等等)非常的多,虽然我们要参加各种各样的宗教仪式,但是根据最新的新闻调查,什么宗教都不信的日本人超过了整体的七层。
日本人普遍的参加各种各样的宗教仪式,但是却不信奉特定的宗教,这就是所谓日本人的宗教观,说好也不好,说坏也不坏。对我一个人来说这是可以接受的。对于日本人有着强烈的宗教观的理由,我想陈述一下我自己的观点。以下是我陈述的主要几点。
1.为什么现代人要参加各种各样的宗教仪式?
2.为什么现代人不信奉特定的宗教的人越来越多?
首先第一点,为了人们说起来容易,听起来容易理解。其实归根结底的说,无论是说山呀瀑布呀海呀,还是说古老的树木还是巨大的岩石,炎热的太阳还有月亮和星星,或是锅啊斧子啊包丁啊,还是农作物,海产品,家畜,动物,雨,风,雷,还有各个神仙菩萨,其实在这大千世界在这万事万物中都有很多是我们恐惧的,我觉得首先应该解决礼拜的问题,分别去理解去体会到底宗教给我们带来什么样的感受。
感觉到宗教是个什么样子的概念之后,我们就会理解各式各样的宗教,从古代传来的神仙的地位还是在日益上升,这给我们带来轻松愉快的感觉。虽然较少数的日本人认为信仰或宗教与幸福生活之间有关,但被问到"是否对祖先有敬意"时,则达95%的日本人回答"有",仅有百分之五的人回答"没有"。
依照年龄层来看,回答"对祖先有敬意的"人,三十岁以上的超过九成,六十多岁的高达九成八。二十多岁的年轻人为八成六。
此外,被问到"在自然界当中,是否感受到有超乎人类力量的某种东西存在"时,有五成六的日本人回答"有",三成九的日本人回答"没有"。 所有年龄层当中,回答"有"的人,都超过五成,其中又以四十至四十九岁之间这一年龄层占最多,高达六成。 针对这问题,回答"相信宗教"的人当中,有七成认为"感受得到"自然界有超乎人类力量的某种东西存在。即使是上述回答"不信宗教"的人当中,也有五成一的人回答"感受得到"。 因此,报导指出,日本人大抵上对大自然怀有敬畏的心意,这似乎关于宗教观的形成有所作用。 有关宗教的一些仪式、活动,受访者被问到是否曾做过或会做时,在可以复选的情况下,七成八的人回答"盂兰盆节或春分及秋分时会去扫墓"、七成三的人回答"新年时会去神社参拜"、五成七的人回答"常对着家中佛坛或神坛双手合十"。 不过,关于宗教色彩较浓厚的行为,譬如诵念佛经、读圣经、布教、望弥撒等,回答会进行这些行为的日本人都不到一成。其实,日本千年以来,从中国学习了大量的知识和技术,同时也学来了自然观和人生观,可到了明治维新以后,日语论文,日本人反过来,不跟中国学,改成了一味追随西方,无论是国家制度,还是生活艺术,号称"脱亚入欧"!这么一来,日本人原先从中国学到手的东西就开始发生了奇妙的演变,演变得中国艺术就象原先日本固有的东西一样。在西方面前,日本人喜欢拿中国的经典当自家的事儿说,而且一说大了,原型也就不顾出处了,外来艺术也被窃为自我所有!
比如,佛教是从中国传到日本的,虽然从教派上有大乘、小乘,还有显教和密教,但一到了日本人这里,他们所接受的不再是这些琐碎的教派和说教,他们只关心"无常观"和"净土观",最多再搭上"空"与"无"的概念,于是就十分坚实地构造出了佛教四大命题;无常、净土、空与无!
相比之下,中国的儒学被日本人利用得十分感性,他们认为这个学说只有"修养"才是真谛,有了修养,才有"仁义礼智信",其余都是戏说!
日本人讲实惠,对看得见摸得着的东西十分投入,所以一座深山里刮起来的风可以信奉,夏天的水田里叫个不停的青蛙也可以信奉,但凡让人能放心者,皆为吾神!我认识一位日本老人,他别的什么都不信,专信地下水道的井盖儿。
现在还有的很多的日本人,有没有执政者,有没有民众,去经过调查,很多很不解的事情或是种类吻合的话,这样会去选择自己要去祈祷的对象。这样子说起来的话其实都有过这种经过,都是用这种办法。关于神来说,这也是对神的一种分忧的办法。保护自己的国家,五谷丰收,武运长久,航海安全,生意兴隆,家内安全,事业顺心,学业有成,交通安全,身体健康,福德招来,极乐往生。都是为了这些目的。为了自己的目的,为了能够显灵,为了能够实现愿望,都会为了目标去选择更显灵更厉害的神仙保佑着。只是有的时候如果没有回报,没有显灵,没有实现愿望,有很多人会马上见异思迁。
像是在那种情况下,困难的事情的时候或是有想要祈求帮助的是时候乞求的对象会有很多,因为那种会发生关联大事了,顺其自然,去参加一切的宗教仪式,只是觉得这个是不是一个矛盾的行动。参加那些普通的多种多样的宗教仪式还有日本人的那种罕见的国民性。不知道是真的还是假的。
其实基本上关于日本人来说,《只可以关于一个信仰,只可以信任一个信仰,其他的通通不可以》关于日本人来说听到这种话会让人很发麻,很无奈的感觉。其实原因也不过是关于其他的来说也无非就是还有有难度的,日语论文,还有畏惧的,还有有对于利益的这么样子的一个说法。
日本人即使没有宗教,即使没有信教,特定的信仰的对象要选择的时候,有时候会信奉很多的神。但是,信奉那种积极的,自由的神,抱着一种和平的信仰态度。
不一样的意见,不一样的看法,不一样的构思虽然很多,平时的时候所想起的,所构思的事物全部来看,姑且不论,有很多很多的意思,有很多很多的意义,关于日本人的信仰来说却有很深很深的兴趣。
原文:日本人の宗教観がカオス過ぎる理由
そのバラエティーたるや、神道、仏教、道教(節句など)、キリスト教、儒教(先祖供養など)と、非常にカァ」なことになっていますが、これだけ多種多様な宗教儀式に参加していてなお、読売新聞の世論調査によれば、何かの宗教を信じていないという日本人は7割超にも達するんだとか。
多種多様な宗教儀式にさんざん参加しておきながら、なお特定の宗教は信じない、というこの日本人の宗教観というのは、よく言えばおおらか、悪く言えばグダグダで、まあ僕個人的にはとっても好ましいものなわけですが、日本人の宗教観がこんな強烈なことになった理由について、ちょっと私感を述べてみたいと思います。ここで述べたいのは次の二点についてです。なぜ現代の日本人にはいろんな宗教儀式に参加する人が多いのか 。なぜ現代の日本人には特定の宗教(または宗派)に帰依しない人が多いのか?
まず一点目ですが、これはよく言われるように、日本に古来からあったアニミズム的な信仰に対して、あとから輸入された宗教が習合していったから、というのが理解しやすいと思います。
つまり、山や滝や海も、古木や巨岩も、太陽や月や星も、鍋や釜や包丁も、農作物や海産物や家畜や動物も、雨や風や嵐や雷も、先祖やいろんな神仏も、どれもまあ有り難く畏れ多いものだから、とりあえずまとめて拝んどくよ、という感覚なんだと思うわけです。
そうした感覚から、様々な宗教や神仏が次々に伝来しても、その都度「八百万の神様にまた仲間が増えたよ」的な気軽さで付け足されていき、七福神みたいなカァ」過ぎる信仰も生まれたりとかして、さらには「今度は耶蘇権現か」とか「次は阿拉明神だよ」とかいう感じで、結果、おおらかな(グダグダな)信仰形態ができたんじゃないか、と僕などは思うわけです。
また、日本人は(為政者であるか民衆であるかを問わず)困りごとや願い事の種類に合わせて祈る対象を選ぶ、というようなこともします。いわば神仏の役割分担です。鎮護国家、五穀豊穣、武運長久から、航海安全や商売繁盛、福徳招来、家内安全、無病息災、学業成就、交通安全、当病平癒、極楽往生といった目的別に、それぞれ御利益や霊験の強そうな神仏を選ぶというわけです。しかも効果がなかったらすぐに浮気するというァ∞ケつき。
そんな具合で、困りごとや願い事の数だけ(またはそれ以上に)祈る対象がたくさんあり、それらにちなむイベントも多くなってきますから、自然な流れとして、ありとあらゆる宗教儀式に参加することになります。しかもそれは矛盾する行動ではない。こうして、多種多様な宗教儀式に普通に参加してしまうという日本人の希有な国民性ができたんじゃないか、と僕などは思うわけです。
とりわけ、企業のマーケティング主導で「恋愛成就祈願、南無大聖バレンタイン大権現!」的な信仰(イベント?)まで生み出してしまうに至っては、もうカァ」過ぎて言葉もありません。しかしこんなことは日本人的には普通。
そしてもう一点、なぜ現代の日本人には特定の宗教(または宗派)に帰依しない人が多いのか、ということについてですが、これは上述の宗教観と強い関連があるんじゃないかと思うんです。つまり、基本姿勢としては様々な有り難いものや畏れ多いものに対する敬虔な気持ちはあるし、御利益や霊験を求める気持ちもあるものの、「信仰対象をどれか一つを選べ」と言われると困ってしまう、というような。
基本的に日本人というのは、「何か一つを信仰しろ、他は一切ダメだ」的なことを言われると、そこで一気に萎えるものんだと思うんです。なぜなら、「でも他にもたくさん有り難いものとか畏れ多いものとか御利益のあるものとかがあるじゃんか」とかいうような感じで。
つまりまあ、日本の宗教なんて、今もってかなり適当な(グダグダな)ものだ、というわけです。そもそも「宗教」という感覚すらないかもしれないくらい。これはかなりカァ」な状況ですが、しかし、見方を変えれば日本ならではのユニークさというか、いいところも多いわけで。まあ、ここまで長々と述べてきましたが、言いたかったこと(僕の私感)をまとめると次の二つに集約されます。日本人の独特のカァ」な宗教観というのは、長年の歴史の上で醸成された概ね好ましい(というか楽しい)ものであるということ 日本人は無宗教でも無信教でもなくて、特定の信仰対象を選べないくらいたくさんの神仏を信奉している(でも帰依はしていない)という、極めて自由で平和的な信仰形態を持っているということ
異論とかはたくさんありそうですけれども、日頃から思っていたことなので書いてみました。ともかく、いろんな意味で、日本人の信仰って興味深いです。
なお、以下は興味のある人にだけ見て欲しい完全な余談ですが、神さまと仏さまの仲が良すぎる件についての資料です。教科書で習ったような神仏分離以降のねじ曲げられた知識しか持ち合わせていない人にとっては、以下の参照先は衝撃的なものかもしれません。まあ、僕の感覚では「これこそ日本の信仰」という感じなわけなんですけれども。 |
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