从长崎到江户-朱舜水留日原因考释/
長崎から江戸へ―朱舜水の滞日理由に関する一考察
摘 要
在中世(镰仓至战国时代)之前,日本对中国艺术的学习,主要依靠于两国人民之间的相互往来,但进入近世(德川时代),日语毕业论文,德川幕府实行锁国政策,禁止日本与海外各国的自由往来,从而导致日本只能片面的通过来日的中国人学习中国艺术。朱舜水就是其中的一位重要人物,日语论文,他在中日艺术交流史上作出了杰出的贡献。但是,当时实行锁国政策的德川幕府明令禁止中国人留日,朱舜水却打破禁令得以留下,这其中的原因值得研讨。因此,本文将以朱舜水留日原因为对象进行略论,并层层深入,剖析出其中的根本原因。
关键词:朱舜水 留日 原因
要 旨
日本に於ける中國艺术受容は、中世以前は日本人と中国人との間の相互往来によって進められてきた。ところが、近世になると、江戸幕府が鎖国政策を取ったため、日本人の海外への自由往来は厳禁されており、もっぱら長崎に来航する中国人が持ってくる艺术に依存する形へと変容した。それら中国人の中、ある重要な人物がいた。その名は朱舜水である。朱舜水は中国と日本との艺术交流に大きく貢献した人物である。けれども、鎖国政策をとっていた当時の日本では、たとえひとりの中国人にしても、たやすく滞在するはずはない。朱舜水はその例外である。本稿は鎖国の背景に朱舜水の滞日理由を略论した上で、さらにその最も基本的な艺术上の原因を検討してみたい。
キーワード: 朱舜水 滞日 理由 |