初めに、「童謡とは何か」ということを定義しておかなければならない。これは、単に「子どもの歌」とひとくくりにできるものではない。「童謡」が意味するものは、時代と共に変化してきた。主に畑中圭一著『童謡論の系譜』(1990 東京書籍)を基に、童謡の概念を追っていく。 (1)わらべうたとしての童謡 童謡という語が(中略)子どもたちが集団的に生み出し継承する歌謡、すなわち「わらべうた」を意味するものとして用いられ、その後明治期を経て大正期半ばまでは、もっぱらこの意味で用いられたのである。 (中略)こうした用いられ方は、鈴木三重吉が大正7年(1918)雑誌『赤い鳥』創刊に際して、芸術的香気の高い、子どものための創作歌謡を「童謡」と名づけてからも、なおしばらく続いた。すなわち、昭和10年代の終わりまでは、わらべうたの詞集、曲集、探讨書の書名に「童謡」という語が数多く用いられている。(注1) 与田準一は昭和18年刊『童謡覚書』(天佑書房)の中の論文「童謡の史的展望」において、わらべうたを「伝唱童謡」とよび、詩人の創作したものを「文学童謡」とよんでいる。その後、志田延義、浅野建二などわらべうた・民謡探讨家が「伝承童謡」という語を用いはじめたこともあって、徐々にわらべうたは「伝承童謡」という語句で表現されるようになり、「童謡」という語が単独でわらべうたを意味することはなくなってしまったのである。(注2) 明治期から大正期半ば、童謡は「わらべうた・子どもたちが集団的に生み出し継承する歌謡」という意味で用いられていた。「はないちもんめ」「だるまさん」「夕焼け小焼け」などがこれにあたる。 しかし、その後わらべうたは「伝承(唱)童謡」とされ、詩人の創作した「文学童謡」と区別して用いられるようになった。 (2)創作歌謡としての童謡 大正7年、鈴木三重吉氏が雑誌『赤い鳥』の中で「童謡とは、芸術的香気の高い、子どものための創作歌謡でなければならない」と唱え、ここに、芸術的な「創作歌謡」としての童謡が誕生したという。畑中氏によると、これは、当時子どもたちに歌われていた「唱歌」の現状に対する激しい批判から生み出されたものである。 「創作歌謡」については、西条八十著『現代童謡講話』(1924 新潮社)の中で次のように述べられている。 …私たちはもつと芸術味の豊かな、即ち子供等の美しい空想や純な情緒を傷つけないでこれを優しく育むやうな歌と曲とをかれらに与へてやりたい。で、私の雑誌ではかうした歌に、「童話」に対する「童謡」といふ名を附けて載せてゆくつもりだ。(注3) この言葉は、鈴木三重吉が西条八十宅で語ったものである。教訓ばかりを盛り込み、子ども達の生活や感受性を無視した唱歌の現状を嘆き、本来子ども達に歌われるべき歌の必要性を主張した。 唱歌批判についての具体例は第2項に記す。 (3)児童詩としての童謡 鈴木三重吉の提唱による「童謡」という語は、童謡運動の充実・発展にともない次第に定着していったのであるが、実はこの時期に、「童謡」はもうひとつの意味をもたされていた。すなわち、子どもたちが自ら創作する詩をも、当時は童謡とよんでいたのである。 (中略)小林花眠の『教学上より観たる童謡の新探讨』(大正11年、博進館)、定村青萍の『教学上より見たる童謡の新探讨』(大正13年、多田屋書店)などにおいては、”童謡の作法指導”"童謡の作法”"童謡指導法”など、いずれも児童詩の指導に関する章名に「童謡」という語が用いられている。(注4) 「創作歌謡としての童謡」という概念が誕生したとほぼ同時期に、「童謡とは、子ども達が自ら創作する詩である」という主張が出てくる。大正期後半から昭和初期にかけては、2種類の概念が混在していたのである。 しかし、学校教学にかかわりの深い人々の探讨書においては、「児童詩」という捉え方が強かったようである。 ,日语论文,日语论文 |