第三項 論の構成 落語は物語の形をとる。一度始まってしまうと後戻りができない。たとえば漫才なら、一つのギャグが終わると、「そんなあほなことあるかい」などの台詞によって、ギャグの前の状態から話をやり直すことができる。落語はそうではない。八公が殿様相手に大変無礼な口をきいたあとで、家老が「なにを申される」といさめれば、八公の発言が無かったことになる、などということはありえない。となると、咄が始まる時の状態、つまり物語の展開する場やそこで動き回る人物によって咄の質・聞き手への効果が大きく変わるのではないか、と考え、本論では咄の設定と筋の流れというごく大きめの視点での略论を試みた。もっと細かい視点での略论のなされた探讨に、金沢裕之「落語における笑いをめぐって-古典と新作とを比較して-」(言語生活 398 p.69-77 筑摩書房 1985)や野村雅昭『落語のレトリック』(平凡社 1996)などがある。前者は古典落語と新作落語とにおける「笑い」の略论を個々のクスグリごとに行い、それらを(A)言葉の誤解に由来するもの(B)ことばのイメージに由来するもの(C)会話のやりとりに由来するもの(D)登場人物の認識に由来するもの(E)演者の演技や演出に由来するもの、の五つに分類し、古典と新作とでの比較をおこなっている。後者では、おもに古典落語を探讨の対象とし、落語に現れるさまざまなレトリックの解説を行っている。 本論は、次のような構成を取る。 この節に続く序章第二節では、落語の聞き手が得る楽しみを「笑い」と「驚き」および「的中」との二つに分け、整理・解説を行う。 第一章では、落語の「人物」と「背景」との設定に関しての分類・整理、および序章第二節で述べる聞き手の楽しみとの関係の解説を行う。 第二章では、咄の筋の流れの中から「繰り返し」に関する部分を取り出し、分類・整理および聞き手の楽しみとの関係の解説を行う。 終章では、第一章・第二章で見た「設定」と「繰り返し」とが、「上方新作落語」「上方古典落語」「東京古典落語」のそれぞれに、どのていど現れるかを見る。 ,日语论文题目,日语论文 |