【摘要】
对存在的困惑与失落——以安部公房的《棒》为中心 对存在的困惑与失落——以安部公房的《棒》为中心 内 容 提 要 战后日本文学在很大程度上,是从寻觅自我开始的,其后发展为自我确认和自我逃避。寻觅自我中产生失落感,从失落感再升腾起寻觅意识,成为包括安部公房(1924—1993)和大江健三郎(1935—)为首的日本存在主义文学的主要杠杆。在寻觅和超越中探究生命的本质意义以及自身的存在,这也是贯穿于日本存在主义文学的轴心和主旨所在。 《棒》是安部公房于1955年写的一篇小小说,也是当时战后文学的代表作。小说以抽象的手法描写了战后日本工业社会下人,特别是工薪阶层者对自身真正意义上的存在产生怀疑与困惑的一部著作。小说的中的“我”是实际存在的,因此有客观存在。但是由于长期以来被动的生活,日语毕业论文,精神受到桎梏,日语论文,心灵无法自在的飞翔,不能做自己想做的,只能在苦闷中寻找放纵,因此是没有自在存在的,这不能称之为真正意义上的存在。只有在客观存在和自在存在同时存在的情况下,“我”才有真正意义上的存在,生命才有意义。 笔者在本稿中通过对突然间变成木棒的“我”的遭遇的略论,得出由于“我”的客观存在与自在存在的矛盾而产生了对存在的困惑与失落,以及只有客观存在与自在存在同时存在的情况下人才有真正的存在的观点。
关键词:困惑 失落感 客观存在 自在存在 要 旨 戦後日本文学は一定の程度で自我を探すことからはじまる。それから、自我確実と逃避に発展した。自我を探す途中喪失感が生じてくる。そして、喪失感からまた自我を探す意識が強めるようになった。これは安部公房と大江健三郎をはじめとする日本の存在主義文学の中心になった。探しと超越から命の本質の意義と自我の存在を探すのは日本の存在主義を貫く主旨である。 『棒』という小説は阿部公房が1955年書いた小説であり、それは当時の戦後文学の代表作でもある。小説は抽象的に戦後日本の工業社会の人、特にサラリーマンたちが自我の存在を戸惑うという事を述べた。小説に現れた「私」は実際に存在しているので、客観的な存在がある。しかし、長いあいだの消極的な生活をしているため、精神が不自由であった。自分がやりたいことができず、苦痛から解放を探すしかないので、自在な存在がない。それは真の存在とは言えない。客観的な存在と自在な存在が両立してこそ、個人は真の存在がある。生命の意義もある。 筆者は本稿は棒になった「私」のことを略论することを通じて、「私」の客観的な存在と自在な存在との矛盾から、喪失感と戸惑いを生じてくるという観点が出てくる。また、客観的な存在と自在な存在が両立してこそ、個人は真の存在があるという結論も出ると思っている。
キーワード:戸惑い 喪失感 客観的な存在 自在な存在
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