序 論 日本概況の授業で、水俣病という病気が始めて聞いた。これはそれぞれ、1953~59年に水俣地方と1964ごろ新潟阿賀野川流域で、工場廃液による有機水銀に汚染した魚介類を食したことにより、集団的に発生した神経疾患という病気である。この病気にかかったら,四肢の感覚障害・運動失調・言語障害・視野狭窄・震えなどを起こし、重症では死亡する。当時の日本は経済を発展させながら、なんの防止手段もないから環境はますます悪くなってきた。その原因で水俣病が出てきた。この病気の予防と治療をきっかけとして、日本は環境保護の活動を始めた。今の中国は1950年代の日本とほぼ同じように一生懸命に経済を発展させようとしているところである。中国人の生活レベルが絶えず高まると同時に、自然環境の破壊はますます深刻になってきた。工場からの廃水がそのまま川に排出されて、川が汚されている。多くの地方では、以前のきれいな水はもう二度と見えなくなった。環境保護の意識が薄いので、このままでは、過去の日本で起こったことは中国でも現れるかもしれない。しかし、かつて水俣病、第二水俣病、四日市喘息、イタイイタイ病という四大公害が起こった日本は今では、汚れがなく、水も空気もきれいな国になった。今の日本を見ると、誰でもこんなきれいな日本で水俣病という恐ろしい病気が発生したとは信じないに違いない。なぜ日本ではこんなに大きな変化が起こったか。この秘密が知りたい。そして、日本が自然汚染についての対策は中国にとって必ず参考になるところがあると信じている。水俣病という公害病に苦しんでいた人がたくさんいる。これは自然破壊の結果である。経済の発展を追求することは大事であるが、環境を守るのも同じである。今の中国は環境問題が話題になっている。そのため、同じ経験がある日本の自然破壊を扱う方法を学ばなければならない時期である。
本 論 第一章 日本の水汚染 1950年代、急速な工業化に伴い、東京湾と瀬戸内海の水質はますます悪くなった。東京湾は世界上で最も汚い湾内と呼ばれて,赤潮と青の汐は氾濫して、魚類と貝類は大量に死亡して、臭気も出てきた。東京には江戸時代前までは寿司という料理がたくさんあって、材料は東京湾の魚類と貝類であった。しかし、工業化による汚染は東京湾から捕獲された魚類の体内に大量の化学成分を蓄積させたので、この有名な料理が食べられなくなった。五十年ぐらいの時間がかかって、東京湾の生態系はだんだん回復した。ただし魚類と貝類の種類と数量は前よりすでに大きく減った。瀬戸内海は中国の渤海に似て、半閉鎖の内海で、かつて自然の魚倉と呼ばれ、鯛魚、イワシ、目魚、鰤魚などがあるばかりでなく、鯨の一大生息地であり、コククジラやセミクジラなどが多かった。日本の沿岸海域の中でひときわ高い生物生産力と生物多様性を有する内湾であた。しかし、戦後の日本は全力で経済を発展させることに力を入れ、瀬戸内海沿岸は最も大きな工業基地に選ばれた。まもなく瀬戸内海が多くの工業部門の共同の下水道になった。工場は未処理の廃水を瀬戸内海に流し、この廃水の中に銅、鉛、水銀などのヘビー・メタルの含有量はものすごく高い。瀬戸内海での汚染は日に日に深刻になってきた。もと十年で一回の赤潮は一年に数百回に進んで、魚エビの姿も消えてしまった注[190]。鯨も捕鯨と汚染により瀬戸内海からほぼ消え去った。このような水汚染の結果、世界を驚かせた水俣病が発生した。熊本県水俣湾の住民は水銀を含んだ海産物を食べた後、痴呆麻痺、精神異常などが引き起こされた。この病気は水俣病と言われ。ただ四万人の水俣市は一万人がこの病気にかかった。
第二章 水俣病について 2.1水俣病の背景 1950年代から60年代にかけて、日本はアメリカやイギリスなどの発達した国に追いつくことを目標として、産業と経済の成長を第一に考えてきた。多くの工場が建設されて、石油化学、鉄鋼、造船、電気機器、自動車などの重工業が速く発展しました。国民総生産がどんどん延びたが、 エネルギーの消耗も急に増えてきた。燃料を燃やす時に大量の有害物質を排出したが、防止手段が何も取らなかった。工場から制限なく流された有害物質によって、自然環境は破壊されて、周りの人々の健康は影響されて、命を奪われる例もたくさん出たのである。その悲惨な状況を訴えて、人々は政府や企業の責任を追及し、対策を求めた。これらの行動は大きな住民運動となって、四大公害訴訟などの裁判に及んだ。水俣病はこの背景で熊本県水俣市を中心に、不知火海(しらぬいかい)で発生した水銀中毒によるものであり、この四大公害訴訟の中の一つである。(八代海(やつしろかい)) 2.2水俣病の原因 水俣市は熊本県の南端に位置する市である。西は不知火海に面して天草諸島を望み、もともとよく自然に恵まれた市であった。1908年、日本窒素肥料株式会社(現在のチッソ)は水俣で工場を開設した以来、水俣市がこの企業の下町として急速に発展できた。しかし、この会社はメチルを含んだ廃液をそのまま水俣湾に流した。水俣病の原因企業であった。日本窒素肥料水俣工場がアセトアルデヒド(乙醛)の生産に触媒として使用した無機水銀がメチル水銀(有機水銀)に変換されたことは水俣病の原因である。アセトアルデヒドは、アセチレン(乙炔)を希硫酸溶液に吹き込み、触媒下で水と反応させることにより生産される。工場は触媒の反応過程で生産されたアルキル水銀化合物(主として塩化メチル水銀)を廃水とし、特に1950年代から60年代にかけて水俣湾(八代海)にほぼ未処理のまま多量に廃棄した。海に流された水銀はまず、プランクトンなどの微生物を汚染した。そして、プランクトンを小さい魚が食べ、それをさらに大きい魚が食べ、最後に人間が大きい魚を食べるというふうにして、有機水銀が人体に入った。このように小さい生物から大きい生物へと移動する間に、有機水銀が体の中でますます濃くなってきた。そのため、水銀は人間の体の中に入ったときにはその濃度がすでに高くなっているのである。体内に入ったメチル水銀は人体の中枢神経や脳細胞を害した。また、それに 1960年には新潟県阿賀野川流域でも同様の患者の発生が確認され、新潟水俣によるものである。 2.3水俣病の主な症状 四肢末端優位の感覚障害、運動失調、求心性視野狭窄、聴力障害、平衡機能障害、言語障害、手足の震えなどがある。患者には重症例から軽症例までいろいろな形がある。症状が重い時は、狂騒状態から意識不明をきたしたり、さらに死亡の場合もある。症状が軽い場合には、頭痛、疲労感、味覚、嗅覚の異常、耳鳴などの病状がある。典型的な水俣病の重症例では、まず口の周りや手足がしびれ、やがて言語障害、歩行障害、求心性視野狭窄、難聴などの症状が現れ、それが徐々に悪化して歩行困難などに至ることが多い。これらは、メチル水銀により脳神経細胞が破壊された結果であるが、血管、臓器、そのほか組織等にも作用してその機能に影響を及ばす可能性も指摘されている。また、妊娠した母親の胎内で水銀におかされ、病気のまま生まれてくる子供も出てしまった。この場合は胎児性水俣病といわれ、重症の場合は、精神や運動機能の発達がおくれて、なかには意識のなくなってしまった子供もいた。 2.4水俣病の影響 水俣湾は、八代海に面した小さな湾で、古くから良質の漁場として知られ、漁業が盛んであったが、水俣病以降、水俣湾内の汚染魚介類の流出を防ぐために仕切り網が設置されていたが、1997年には安全が確認されて全面撤去された。しかし、多くの犠牲者が出て「死の海」と呼ばれるようになり、「水俣」は世界的規模で負のイメージを帯びることになった。この水俣病は地域社会の人間関係にも大きな傷を残している。農業も風評被害に遇い、大打撃を受けた。1968年チッソ水俣工場は水銀の流出を止め、熊本県は1980年から、水俣湾に溜まっている水銀ヘドロが魚や水を汚さないように、封じ込める工事を行った。14年の年月と485億円のお金がかかった結果、水俣湾に58ヘクタールの埋立地が生まれた。埋立地の下には今でも多くの水銀があるので、これからもずっと危ないことが起こらないように見ていかなければならない。現在では、漁業も再開されています。しかし、患者の健康は戻らない。1950年代に生まれた胎児性水俣病患者は病気のまま、人生の約半分を生き、今なお病気と闘っているのである。幸いなことに、このことから人々は水俣が生命の源である「水」と「食べ物」がいかに大切なものであるかと認識できた。そして、家庭や事業所から出す「ゴミ」は、自然を損なうものであってはいけないことも学んだ。
第三章 中国の水汚染 3.1水汚染の原因 農業はすでに中国の水を汚染した一つの要因になっている。しかも水汚染の張本人である。化学肥料と農薬の使用量はものすごく多い。しかし、使った農薬と肥料はただ小さい部分は作物に吸われて、大部分は雨で地下に到達して、地下水を汚すことになる、あるいは地表の流れに従って、川や池や水田などに流れこむこともある。化学肥料は水の富栄養化注[191]と硝酸塩の含有量の過剰を引き起こすので、水を汚す一番の原因である。それから、工業は “廃液・廃ガス・廃棄物”すなわち廃水を生産して、排気ガス、固形廃棄物は環境を汚す主要な要素でもある。廃水はひどく流れを汚して、土、地下水、大気、環境を破壊して、建築物と装置に損害を与えて、人間の健康と命に危害が及ぶことである。中国政府が観測している13都市の汚水排出企業180社のうち41社は排水量が基準をオーバーしていた。これらは石油化学工業、製紙、印刷など大量の汚染物質を排出している企業であった。一部の県郷企業でも汚染が非常に深刻である。水俣病は工業廃水のため、周りの人々に一生も忘れられない怖い記憶を与えたが、中国も現在それと近いような問題が出てきている。もう一つの大きな汚染源は生活から出された汚水である。都市と農村で所々から汚れた水が出ている。2006年にはただ北京と上海の二つの都市からの生活汚水はそれぞれ9億と11億トンに達した。全国の大小さまざまな都市からの生活汚水の排出量はすでに工業汚水の排出量を超えたことになっている。海洋汚染には船が座礁したりぶつかって破損してしまうと、船を動かすために使われる油は海水に流出してしまう場合がある。特にタンカーに積載されている重油が流出して、周辺海域の魚や海鳥などの生物に大きなダメージを与えたことがある。水もひどく汚染されたことは言うまでもない。 3.2渤海とそのほかの水汚染 1970年代以前は中国の近海がまだほとんど汚れなかったが、経済の発展に伴い、海洋汚染の問題はますます深刻になってきた。渤海は遼東半島と山東半島に囲まれた中国唯一の内海である。一時は「魚の宝庫」、「海洋公園」とも呼ばれていた。しかし、天津を中心とする渤海湾地域の経済が急速に発展したことで、渤海は魚さえ住めない巨大な汚染地と化している。中国の国家海洋局が2005年に渤海の汚染状況についての調査した結果、渤海の海洋生態系はほぼ壊滅状態に達していた注[192]。以前はクルマエビ、ハマグリ、ヒラメ、イシモチ、スズキ、イカなどが多く獲れていたものの、今ではこれらの魚種も一切姿を消してしまった。汚染海域が2003年以来、引き続き拡大し、悪化の一途をたどっている。海水の水質汚染基準をオーバーしている面積が渤海全体の56%に達している。渤海に工場排水が流入し、一部で魚が全滅し、既に「死の海」になっていると、中国紙、「南方都市報」がこのように報じた注[193]。海洋専門家は渤海の環境回復には200年が必要だと指摘し、さらにこのまま沿海地区開発が進めば、黄海などでも同様の事態が起きる可能性があると警告している。渤海に流れ込む53河川のうち、43河川の汚染が極めて深刻な上、沿岸の工場からも直接汚水が流入し、国内の海で渤海の汚染が最もひどいという。渤海の海水中の重金属含有量は正常レベルの2000倍を超え、一部の工場排水口から周囲数キロにわたって魚が全滅した。中国政府は渤海汚染の深刻さが分かって、そして、2001年から「渤海碧海行動計画」という汚染防止プロジェクトに着手したにもかかわらず、渤海の状況が悪化している。渤海だけでなく、ほかにも汚染が発生している海や川がある。例えば、江蘇省の太湖で藍藻が大量発生し、水道水から悪臭がするなど、飲料水に関し健康不安が広がった。国家環境保護総局によると、太湖では窒素とリンの量が2006年までの10年でそれぞれ2倍、1.5倍に増加した。2006年に黄河流域の工業汚水の排出量は32トン、揚子江流域は137トン、淮河流域は26トン、珠江流域は53トンに達した。現在の中国の水汚染はもう非常に深刻で、高度成長期の日本の状況と大体同じである。当時の日本で有名な四大公害が発生して、環境汚染の程度は今の中国よりひどかった。目の前の経済だけ重視して、環境を破壊して、人間の命に大切な水をめちゃくちゃ汚染した結局、日本の国民に大きな不幸を招いて、政府にも大きな損をもたらした。これを認識して、日本全国は環境回復に取り組んでいろいろな努力をしていた。今の日本はとてもきれいで、国民も一生懸命環境を守っている。なぜ日本ではなぜこんな大きな転換が起きたのか、日本人はどんな努力をして地獄のような国を今、天國のような国としたのか。当時の瀬戸内海の汚染した程度は渤海よりもひどくかった。なぜ日本は成功できたが、中国は成功できないのか。日本のやり方は中国と違った処がどこにあるのか。こんなことが知りたいのである。
第四章 水汚染に対する日本の対策と成果 日本は海を回復させるために、《水質汚濁防止法》などの法律を制定すると同時に、また瀬戸内海に対して、特別に《瀬戸内海環境保護臨時施策令》を作った。この法律は瀬戸内海とその隣の海域に出された工業廃水の汚濁負荷量を半分を減らし、しかも三年間で、だんだん工業廃水に関する汚染負荷量が規定した程度に減らすことを決めた。以上の法律が二年後瀬戸内海の回復に大きな役割を果たしたことが見られた。そのため、昭和54年に日本国会でこれを永遠な法律にすると決定した。その上、日本の各政府部門に対して、それぞれの職責を明確にした。例えば全国の海洋環境保護のは環境庁に任せ、他の省庁、地元の政府は自分の管轄する海域の汚染を観測すると決める。水俣湾に対しては、1974年に熊本県は水銀汚染魚の拡散防止のため、水俣湾に全長4,400mの大型仕切網を設置し、汚染魚の捕獲が行われた。さらに、水質改善のため、大掛かりな浚渫及び埋立工事を行った。以降、熊本県は魚に含まれた水銀量を定期的に調査していたが、1994年10月に国が定めた暫定基準(総水銀0.4ppm・メチル水銀0.3ppm)を下回ったため、1997年月に安全宣言が出され、同年10月に仕切網が撤去され、漁業も再開された。2008年では、水俣湾は透明度・汚れの度合いが大幅に改善され、日本でも有数のきれいな海となり、海水浴もまったく問題がなくなっている。水汚染によって阿賀野川の漁業関係者は失業などの被害を受けたが、こうした窮状を打開するため、1976年、阿賀野川下流部の汚泥を浚渫によって除去する工事を開始し、同時期より「阿賀野川水銀汚染総合調査」が開始された。2年間の調査をして、1978年に調査結果がまとまり、阿賀野川の土壌および魚介類における水銀濃度が国の定める暫定基準値以下であったという結論が出された。その後も継続的な調査を行って、阿賀野川における水銀濃度は環境省の定めた基準値(0.0005mg/l以下)を下回っており、水銀による汚染は収束されているという。7
第五章 日本の対策が中国に対する啓発 渤海汚染の処理を任された部門は環境保護総局、国家海洋局、海事、交通部門などがある。しかし、これらの部門による処理はすればするほど、渤海汚染程度がますますひどくなってきた。これは何たる皮肉なことであろう。これらの部門は各自の責任をさせないで、それぞれの計画を提出して、相手の意見を認めなかった。どちらの意見が権威のあるもので、基準とするのかは全然分からなかった。法律がなければ、渤海などの汚染問題が解決できない。だから、中国が日本のように必ず唯一で権威的な提案を作り出さなければならいと思う。中国政府は水汚染を重視し、各地で汚染企業の閉鎖、取締強化の施策が次々打ち出されているが、今の中国の水汚染の状況はまだ深刻である。当時、瀬戸内海に対する観測投資の拡大を通じて、1972年には700カ所の観測所を設けた。これらの装置は一年中連続的に瀬戸内海の様子を観測できると共に、いろいろな調査を通じて、瀬戸内海や水俣湾の汚染現況がはっきり分かっていた。それに、社会の各階層の間で瀬戸内海や水俣湾を保護する重要性と必要性を宣伝していた。政府のほかに大学と民間の間でも環境保護の活動を行った。努力した結果、1980年代の初め、瀬戸内海の水質はかなり良好な状態に回復した。日本のやり方を参考にして、まず中国の各地元政府は職責を明確にして、それぞれの仕事を全力でやって、それにお互いに協力するように進めることである。それから、政府や関係の組織が人民大衆の間で、渤海をはじめとする海や川を保護する重要性と必要性を宣伝することが非常に重要である。そればかりでなく、地方政府、企業、民間の間で水の保護をアピールしたり、自ら実行したりするのも、海洋環境研究所などの機構を成立するのも必要であると思う。政府と民間との力を集めて、共同で水汚染の問題を解決するのに力をいれる。その上、中国政府は生活排水に対する施策を推進するために必要な技術上及び財政上の援助に努めなければならない。市町村の下水道などの生活排水処理施設の整備に積極的に協力することが必要である。国民もできるだけ日常生活からの排水量を減り、水を節約して使うし、企業も先進技術を導入し、汚染した水を処理した後で排出するようにするべきである。しかも、工業企業からの汚染を制限するために、重点流域の水質汚染物質の排出に関する国の基準を引き上げるべきであると思う。それに水汚染対策に向けた先進的かつ適応性のある技術を取り入れたり開発したりすることも重要である。
結 論 経済の発展を追求することは大事であるが、環境を守るのは最も大事である。人間は自然に恵まれて、生きている。自然は人間の母である。しかし、われわれ人間は愛する母を守るどころか、愚かなことばかりしている。水俣病が現れたのは自然を無視して、やたらに環境に悪いことをした結果である。幸い、日本人は水俣病から自然を守ることの重要性が分かって、そして、政府から民間までみんな必死に環境の回復に努めてきた。政府が権威的な法律を出し、この法律に基づいて、水汚染処理の問題に取り組んできた。しかも、大金を払って、水汚染処理の設備を導入し、先端技術も求めた。そればかりでなく、民間でもたくさんの環境保護の組織が現れた。全国一同で環境保護の活動をやったのは日本の成功した秘密であると思う。今、地球上の各地で環境悪化が深刻化する一方で、特に発展途上国の環境破壊である。対策を取らなければ、また人間に恐ろしい病をもたらすかもしれない。水俣病のような怖い病気はどの国にも現れないでほしい。日本のやり方は中国だけではなく、世界各国に対しても参考になると思う。水汚染が環境問題の中の一つであり、ほかには地球温暖化、地盤沈下、騒音などの問題もある。だから、今は地球を守らなければならない時期になった。もうこれ以上地球を破壊できない。地球環境保全のために、先進国であろと発展途上国であろうと、また政府レベルから個人レベルまでの幅広い協力の枠組みを構築する必要がある。環境保護は一人の力では小さくて、みんなの力を集めて、日常生活からやるべきである。地球を守るのは世界中の一人一人の責任であり、偉い人でも、平凡な人でも自分のできる限りの力で地球環境を守るのに努力しなければならない。人間の生存にとって大切なものが破壊されると、人間はこの地球から消えるかもしれない。私たち人間は目の前の利益だけを重視するのではなく、世々代々のために長年の利益を求めるべきである。「水保護をはじめに、地球を守ろう」というのは全人類の心の声になってほしい。
謝 辞 卒業論文の指導教師として、缪先生がご多忙にもかかわらず、何回も精緻なご指導、ご添削をしていただいたおかげで、この卒論が順調に出来上がりました。また、大学時代に、先生かたがたのご指導に心から感謝の意を表したいと思います。大変お世話になりました。 この場を借りて御礼を申し上げます。
参考文献 「1」李中林.现代日本概况.北京航空航天大学出版社.2009—09 「2」水上勉.大海獠牙.李长声译. 群众出版社,1999—01 「3」1966年熊本大学医学部水俣病研究班.『水俣病』(赤本).医学論文集 「4」宇井純.公害の政治学 水俣病を追って.1968年,三省堂新書 「5」宇井純.公害原論.1971年,亜紀書房 「6」小野寺骏一,司月玲.濑户内海的污染治理,交通环保1981年06期 「7」于本善.中国境内的”水俣病”[J].福建环境,1995年04期 「8」;宋崇元.我国沿海主要港口资料简介[J].天津航海,1984年04期 「9」李淑文.环渤海污染问题的原因和对策[J].《经济研究导刊》,2007年03期 |