...友人から聞いた話である。彼は、だいたいが慎重な運転をする男だったが、ある日のこと、横丁から突然、そば屋の青年が自転車で飛び出してきて、彼の自転車と衝突してしまった。 幸い青年にはけがはなかったが、自転車はメチャメチャ。...警察官もやってきた。友人が、「私には責任はない。その青年の不注意だ」と主張すると、その話を聞いた警察官は、とにかく五千円払えば立ち去ってもよい、と言ったという。 友人が、「...。私には落度がないのに、なぜ罰金を...」と問い返すと、彼は「いや罰金じゃない。青年がかわいそうじゃありませんか」と答えた。...せめてメチャメチャになった自転車の代金の一部だけでも、と警察官は考えたのだろう。 悪くすると、これは大きなトラブルになりかねない。友人は根が日本びいきで、日本語も日本人的心情も理解していたから、それ以上の論争にはならなかったが、どちらがよいか悪いかの問題ではなく、西洋と日本では、法や正義に対する考え方が、全く違うことがわかる。...(ヨゼフ・ロゲンドルフ「ニッポンの学院生」) 問:「悪くすると」とあるが、例えばどういうことか。 1. 青年がその事故で病気になったりすると。 2. 警察官がその青年にお金をあげたりすると。 3. 私がそれをほかの人に話したりすると。 4. 友人がそれを法的に問題にしたりすると。
正解:4
この文章は、中学生の約60%ができない数学の問題(図形の論証)を中学校のカリキュラムに入れるべきかどうかについて論じたものです。 教学は本来平等を目指すべきものだが、しかし残念ながらある局面では平等たり得ない。ここに教学の矛盾があると思う。二つの理由で、「図形の論証」のような難解な教材がカリキュラムに組み入れられるのもやむを得ないし、むしろそれがときに必要な措置だとさえ私が考えている所以を述べたい。 第一に、教材は現在の社会の現実にだけ合わせるべきものではなく、...第二には艺术とは何か?ということと深く関係がある。...。教学の中に分からないもの、及ばないものが入ってきてはいけないという考えが、教学を狭めてしまうことになる。...物理の教科書は分かったこと、解明済みのことしか記述しない。このような教科書の記述の仕方は間違っているのではないだろう。...。分かったことや分り易いことだけで教学を限定すると、教学を結局はし死滅させることにつながりかねない。...(西尾幹ニ「教学と自由」) *カリキュラム:教学の内容。 所以:理由。
問:「教学を狭めてしまう」とあるが、どのような意味か。 1. 教学を受ける機会が平等でなくなってしまう。 2. 内容を理解できない中学生が増えてしまう。 3. 本来の教学の意味が損なわれてしまう。 4. 正確に教えられる教師が減ってしまう。 正解:3
20年も前、初めて米国に留学した際、週末にホームステイに招いてくれた老婦人が、こんなことを私に言った。 「あなたはこれからこの国で様々な人にであうことでしょう。親切にしてくれる人もたくさんいるとは思うけれど、あなたの心を傷つけるような冷たい言葉や態度に出会うこともあるでしょう。そんな時悲しんだり怒ったり相手を責めるのではなく、難しいことだとは思うけれど、その人を許し、その人のために祈ってあげてください。不親切な人というのは実は暖かい心の触れ合いを知らない不幸な人なのですから。」 その後アメリカでも、また帰国後も、様々な人に出会い、様々な経験を重ねるにつれて、この老婦人の言葉は本当だと今更ながら私は思うのだ。
* ホームステイ:よその家庭に滞在すること 今更ながら:あらためて。
問:「老婦人の言葉は本当だ」というのはどういう意味ですか。 1. アメリカには、本当に親切な人もたくさんいるが、不親切な人もたくさんいる。 2. 人を許し、その人のために祈るのは本当に難しい。 3. いつの世にも、人は本当にいろいろな人に出会って、学びながら生きていくものだ。 4. 本当に、不親切な人は皆、不幸な人なのだ。
正解:4
旅というのは一般的に見れば人間の空間的な移動であるが、空間移動と時間移動の間に一つの類推をたててみた場合、例えば東京から仙台まで移動するのが旅であるように、少年期から老年期までの時間経過も一つの旅と考えることができよう。人が目的地に向かって旅する時、必ずたどるものは道であり、我々日本人はしばしば生きる態度そのものを「道」に託する。花道、茶道、書道、柔道という言葉も、単なる技能としてとらえられたものではなく、それらの技能の習得を通して、我々日本人が日々、それぞれ生きる「道」を求めて行こうとしていることを表す言葉なのである。 (加藤秀俊「新旅行用心集」)
*託する:たとえる。 習得:習って自分のものにすること。 日々:毎日の生活の中で。
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