村上春樹『風の歌を聴け』の表現特性について
序章 課題設定の理由
村上春樹の処女著作である『風の歌を聴け』は、に群像新人文学賞を受賞した著作である。その選考にあたった吉行淳之介氏は、この著作についてこれまでわが国の若者の文学では、「二十歳(とか、十七歳)の周囲」というような著作がたびたび書かれてきたが、そのようなものとして読んでみれば、出色である。乾いた軽快な感じの底に、内面に向ける眼があり、主人公はそういう眼をすぐ外に向けてノンシャランな態度を取ってみせる。そのところを厭味にならずに伝えているのは、したたかな芸である。と言っている。また、同じように選考にあたった丸谷才一氏は、村上春樹さんの『風の歌を聴け』は現代アメリカ小説の強い影響の下に出来上がったものです。カート・ヴォガネットとか、ブローティガンとか、そのへんの作風を非常に熱心に学んでいる。その勉強ぶりは大変なもので、よほどの才能の持ち主でなければこれだけ学び取ることはできません。昔ふうのリアリズム小説から抜け出そうとして抜け出せないのは、今の日本の小説の一般的な傾向ですが、たとえ外国のお手本があるとはいえ、これだけ自在にそして巧妙にリアリズムから離れたのは、注目すべき成果と言っていいでしょう。と言っている。わたしがこの『風の歌を聴け』に初めて出会ったのは中学二年生のときであった。当時のわたしには(今のわたしでも無理だが)、上記のような解釈ができるわけもなく、この小説はわたしの中でずっと「謎の小説」であった。しかしそれにも関わらず、この小説にはずっと惹かれるものがあり、折に触れて読み返していた。この卒業論文を始めるまで、わたしにわかっていたことは一つだけだった。それは、「わたしはこの読後感に惹かれている。」ということである。このことを頼りに略论を進めるうちに、この小説は終わり方に特徴があることが判明した。また、丸谷才一氏は「小説の流れがちっとも淀んでいないところがすばらしい。」とも言っている。このようになる原因も、叙述面で何か特徴があるのではないだろうか。この終わり方と叙述措施の特徴が、吉行氏の言うような「厭味にならず伝えている」要因になっているのではないかと考えた。 そこでこの卒業論文では、終わり方と叙述措施に注目しながら『風の歌を聴け』の表現特性について論じていきたい。特に終わり方については、独自の分類措施を考案し、それに基づいて細かく見ていく。
第1章 課題解明の措施 第1節 『風の歌を聴け』について 『風の歌を聴け』は、先ほども述べたように村上春樹の処女著作にあたる。また、「鼠三部作」と呼ばれる著作群の最初の著作でもある。「鼠三部作」とは、『風の歌を聴け』、『1973年のピンボール』、『羊をめぐる冒険』の3著作のことである。 この3著作は、「鼠三部作」と言われるようにすべてに鼠が登場する。また、僕もジェイも登場する。言ってしまえば、出演者はすべて同じといえるかもしれない。『風の歌を聴け』に出てくる自殺してしまった三人目の女の子は、『1973年のピンボール』において「直子」という名前を付けられ登場している。また、『風の歌を聴け』で鼠が抱えていた女とのトラブルは、『1973年のピンボール』でもまだ続いていて、『羊をめぐる冒険』において僕の手を借りやっと終わっている。このように、この「鼠三部作」には共通した部分が数多く見られる。 そのほかに、対応した記述も多く見られる。ここに一例だけ挙げておく。 そんなわけで、僕は時の淀みの中ですぐに眠りこもうとする意識をビールと煙草で蹴とばしながら、この文章を書き続けている。熱いシャワーに何度も入り、一日に二回髭を剃り、古いレコードを何度も何度も聴く。今、僕の後ろではあの時代遅れなピーター・ポール&マリーが唄っている。 「もう何も考えるな。終わったことじゃないか。」 『風の歌を聴け』 帰りの電車の中で何度も自分に言いきかせた。全ては終っちまったんだ、もう忘れろ、と。そのためにここまで来たんじゃないか、と。でも忘れることなんてできなかった。直子を愛していたことも。そして彼女がもう死んでしまったことも。結局のところ何ひとつ終ってはいなかったからだ。 『1973年のピンボール』 このように対応した記述が「鼠三部作」全てに渡ってみられる。この例を見たらわかるように、『風の歌を聴け』では、「終わったこと」だと考えているのは何のことなのかさっぱりわからないが、『1973年のピンボール』にはまるでその種明かしのように「終わったこと」=「直子のこと」だと明確に書かれている。しかし、今回の卒業論文では、『風の歌を聴け』のみで考えたときの解釈について略论した。確かに三部作にはなっているから、「終わったこと」=「直子のこと」なのかもしれない。しかしそれでは、『風の歌を聴け』という一著作のわたしの考える「謎」について説明できたとはいえないと考えたからである。 わたしの中で約十年間「謎の小説」と位置づけられていた『風の歌を聴け』について、次の章から考察していく。 |