日本語の代名詞は一般にゼロ代名詞とよばれるために、一見して代名詞がないような文があります。しかし代名詞がないのではなく、音形のないゼロ代名詞があるのです。音形のないゼロ代名詞が使われていると、表層では主語などが省略されたような形で現れます。 ビーチに泳ぎに行きたい。 上の文は自然な日本語です。主語はないように見えます。述部が「行きたい」です。主語は音形のない1人称のゼロ代名詞が「ビーチに」の前に置かれていると一般に考えられています。上の文は次のような深層構造になっていると考えられます。 [pro] ビーチに泳ぎに行きたい。 proは言語学で音形のないゼロ代名詞を表します。ここのproは「私は」という1人称の音形のないゼロ代名詞です。さきほどの文は次のような文に翻訳することが可能です。 私はビーチに泳ぎに行きたい。 日本語にはゼロ代名詞を使っています。これは日本語の場合は動詞と主語の人称との一致があるからです。そのためゼロ代名詞を使っても主語の人称がどれなのか明確にわかるようになっています。例えば最初の文の主語を顕在した主語の「彼は」をつけると非文ができます。 彼はビーチに泳ぎに行きたい。 上の文は主語の「彼は」と動詞の「行きたい」とが一致していませんから非文になりました。「行きたい」という動詞句は1人称の主語と一致するようになっています。3人称の「彼は」が主語になり、1人称の動詞句を必要とする「行きたい」とをつなげると主語と述部の一致が不一致になり非文となるのです。 日本語では主語だけでなく目的語に使われる代名詞もゼロ代名詞を使います。目的語にもゼロ代名詞を使うとまるで目的語を省略したように思われますが、これも音形のないゼロ代名詞が使われているだけです。しかもこのゼロ代名詞は文脈依存の代名詞で動詞と一致関係があるような主語の位置に現れるゼロ代名詞とは異なります。 昨日あの番組みた? ん、みた。 後半の「ん、みた」は主語にも目的語の位置いにもゼロ代名詞が使われています。深層の文を考えると次のような形になっています。 ん、pro proみた。 前半のproが主語でその次のproが目的語です。音形のないゼロ代名詞を使うと日本語ではまるで何もかも省略することが可能であるかのように錯覚されますが、実際は英語と同じく、必要なものはちゃんと付かなくてはいけません。上の文を顕在化した代名詞を使って言うと次のようになります。 ん、私はそれをみた。 英語を話したり書いたりする場合は、日本語ではこのように音形のない代名詞を使っているが英語では音形のある顕在化した代名詞を使っているということに留意しなくてはなりません。この根本的な違いを無視して次のような英文を書いても通じません。 Yesterday, did see the program Yea, saw. 日本語では音形のないゼロ代名詞を使っていますから、上の会話は次のようにならなくてはならないのです。 Did you see the program yesterday Yea, I saw it. 英語と日本語ではこのように代名詞の現われ方が異なるためにいろいろな問題が生じてきます。英語の代名詞he は日本語では「彼が」であるという間違った前提に立って日本語を英語に翻訳したり、その逆を行おうとすると非文を作り出すようなことになってしまいます。英語の代名詞の体系と日本語の代名詞の体系とは異なるのです。heは「彼が」に一致する場合もあるのですが、そうでない場合も非常に多くあります。日本語ではゼロ代名詞を多用しますから、明確な違いは別の体系を使って表すようになります。例えば1人称のゼロ代名詞を使った場合は動詞句に「たい」という助動詞を使うとか、3人称のゼロ代名詞を使う場合には動詞句に「たい」という助動詞を使わず「がる」という助動詞を使うとか、代名詞ではなく助動詞で主語の人称を表現しています。 |