日本人の言語表現の特徴について
はじめに ご周知のように、日本という民族には特殊な艺术現象がある。それについて、さまざまな視点から多くの探讨がなされている。たとえば、日本の和服、花道、茶道などの民族艺术を紹介した先行探讨がある。今日では、日中関係が改善されるために、言語はお互いに交流するツールとして、ますます重要であり、かつ有意義である。本論では、まず、日本人のあいづち、本音と建前などの言語表現から略论する、さらに、日本人の言語表現の特徴を明らかにするに止まらず、言語表現に潜んでいる社会原因を探ることをもう一つ目的とする。
第一章 日本人の言語表現 1.1断言しない言い方 「日本人は自らのイデオロギー思想に生き、これを妨げる存在があれば、排除してまえへ進むという生き方は、一般には好まれない。日本人にとって、はっきりしたイデオロギーとか思想を持つひとは、警戒ないし敬遠される。自分が周囲をどう見るかということよりも、周囲からどう見られているかのほうが常に気になる。人並み、目立たぬものが好まれる心理の中にいきている。生活程度にしても、自ら中流と考える人が圧倒的多い。日本の総理府が発表した「国民生活に関する世論調査」の結果によると、中流意識を持つ人、全体の90.2%にたっしているという 。無論「中の上」と「中の底」とは、ずいぶん差異があるが、いちおう目立たない「中」に位置すると、まず安心を感じる。 この目立たない心理は、生活のいろんな面に表している。日本人は自分の意見を確固として持っていても、「私はこう考える」、「私の意見はこうだ」という直接な表現は避け、「こうなのではないでしょうか」、「こう考えたいのですがいかがでしょう」などといった婉曲な言い回しをするほうが適当で丁寧だと考える傾向が強い。相手に考慮や判断の余地を与えることが言語表現の上では、もっとも重要である、自分の意見をはっきりといわない、相手から返てくる反応をとりこんで自分を主張していこうとする姿勢の表れである。つまり、主体性に欠ける言語行動と評価される、また、相手との共同作業で会話を進めていこうとするやさしい態度の表れである。「わたしは」という主語もあまり用いない。「わたしは」というと、「一般の考えては違って私は……と思う」という意味となり、聞き手との間に距離が置かれてしまう。「わたしは」の主語抜きで言えば、聞き手は私といったいとなり、私の話を聞いてくれることになる。 1.2、本音と建前 本音と建前という言葉も日本人の間ではよく使われる。建前は「表向きには」とか、「原則として」という意味である。公的な立場からの見解について述べる時に使われる。それに対して、本音というのは、つまり本当の心、気持ちである。また、本音を個人の論理、建前を集団の論理としてとらえることもある。日本人は表向きの方針や集団の論理である建前を優先するが、その奥に本当の声、個人の論理である本音がひそんでいることはよくある。 日本人はあいさつをよくすると言われる。確かに朝起きてから夜寝るまで、日常生活のさまざまな場面で決まって用いられるあいさつ言葉も豊富である。日本人は人と人を隔ての心で対立的に捉まえ、相手を支配し、使役しようとするのではなく、お互いの間につなぎの心を持っている。顔は温和であり、お互いに決まり文句のあいさつを繰り返して、許しあう。この場合の言葉はせいぜい互いに友好な気持ちを表現するための手立てに過ぎない、言葉の内容はそれほど重視されない場合が多い。 日本人は、「今度、ぜひ家に遊びに来てください」とか、「今度、家を新築しましたので、お近くにお手掛けのときはお立ち寄りください」などは、相手に対する好意の表現であるにとどまり、この言葉を信じて相手の招待を待っても、一向に実現されないことが少なくない。なにかの必要があって、その家の近くまで行ったついでに、本当に相手の家を訪れて迷惑がられたりするのは、不思議でたまらなかった。 もし、京都で他人の家を訪問し、「ご飯でもめしあがっていってくださいませんか」と繰り返し主人に言われ、その言葉を受け止めて食事をしたら、客人が帰ったあとで、その家族の人たちの間では、客人の行為について、悪口を言われることになる。京都地方の習慣では、何度食事を勧めたのは、相手に対する好意を、最大限に表現したにすぎない。実際には、「では、ご馳走にあずかりましょう」と受けられた場合、食事の用意もしていなくて、主人を困らせることがよくある。 このように「本音」と「建前」の違い、つまり形式と実質、言葉と行為の食い違いは、日本の場合、往々にして、極めて大きい。したがって、相手の本心は何かについて、様々な手段で探る他は措施がない。相手がにこにこし、言葉で最大限の好意を示したとしても、それはその場の平和をたちたいとか、むこうの心を傷つけないようにするとかのためである。 1.3、あいづち
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