それに対して、本音というのは、つまり本当の心、気持ちである,相手がにこにこし、言葉で最大限の好意を示したとしても、それはその場の平和をたちたいとか、むこうの心を傷つけないようにするとかのためである,実際には、「では、ご馳走にあずかりましょう」と受けられた場合、食事の用意もしていなくて、主人を困らせることがよくある,逆に、「はい」とか、「そうですね」というようにあいづちをつきながら聞いていると、他人はどんどん話し続けていく, 日本人はあいさつをよくすると言われる,このろうに日本人と接して外国人が「日本人がほんどうにやさしくて、わたしの話を聞きていてくれるね」を感じることになる,それについて、さまざまな視点から多くの探讨がなされている,日本人は人と人を隔ての心で対立的に捉まえ、相手を支配し、使役しようとするのではなく、お互いの間につなぎの心を持っている。 日本の総理府が発表した「国民生活に関する世論調査」の結果によると、中流意識を持つ人、全体の90.2%にたっしているという ,あいづちを打たないことが何回か重なると「疲れてるの」「体調が悪いの」しまいには「寝てるの」とまで言われ、不審に思われるだろう,日语论文,また、「どうも」の後に来る言葉の如何によって自在に意味が変わるので、「どうも」だけではその後にどんな意味が省略されているという ,人並み、目立たぬものが好まれる心理の中にいきている,顔は温和であり、お互いに決まり文句のあいさつを繰り返して、許しあう,日本人は自分の意見を確固として持っていても、「私はこう考える」、「私の意見はこうだ」という直接な表現は避け、「こうなのではないでしょうか」、「こう考えたいのですがいかがでしょう」などといった婉曲な言い回しをするほうが適当で丁寧だと考える傾向が強い, 日本人の言語表現の特徴について はじめに ご周知のように、日本という民族には特殊な艺术現象がある,「どうも」は、日本語では単独でも、さまざまな場面に広く使われているが、長々と述べる話を省略できる。 「そうでしたか」、「うん、うん」、「よかったね」など、いつでも気軽に声を出して、いくつかの異なるあいづちを打てば、それだけでも日本人はコミュニケーション上手のイメージを相手に与えることができる,日语论文, 1.4省略現象 1.4.1「どうも」による省略現象 日本で、友人に道で会ったら「やあ、どうも」と言えばいいし、忘れる時は、「それでは、どうも」と言っておけばよろしい,建前は「表向きには」とか、「原則として」という意味である, 日本人は、「今度、ぜひ家に遊びに来てください」とか、「今度、家を新築しましたので、お近くにお手掛けのときはお立ち寄りください」などは、相手に対する好意の表現であるにとどまり、この言葉を信じて相手の招待を待っても、一向に実現されないことが少なくない,「わたしは」というと、「一般の考えては違って私は……と思う」という意味となり、聞き手との間に距離が置かれてしまう,なにかの必要があって、その家の近くまで行ったついでに、本当に相手の家を訪れて迷惑がられたりするのは、不思議でたまらなかった,「わたしは」という主語もあまり用いない,本論では、まず、日本人のあいづち、本音と建前などの言語表現から略论する、さらに、日本人の言語表現の特徴を明らかにするに止まらず、言語表現に潜んでいる社会原因を探ることをもう一つ目的とする。 もし、京都で他人の家を訪問し、「ご飯でもめしあがっていってくださいませんか」と繰り返し主人に言われ、その言葉を受け止めて食事をしたら、客人が帰ったあとで、その家族の人たちの間では、客人の行為について、悪口を言われることになる, このように「本音」と「建前」の違い、つまり形式と実質、言葉と行為の食い違いは、日本の場合、往々にして、極めて大きい。 日本人は表向きの方針や集団の論理である建前を優先するが、その奥に本当の声、個人の論理である本音がひそんでいることはよくある。 公的な立場からの見解について述べる時に使われる,また、本音を個人の論理、建前を集団の論理としてとらえることもある, 第一章 日本人の言語表現 1.1断言しない言い方 「日本人は自らのイデオロギー思想に生き、これを妨げる存在があれば、排除してまえへ進むという生き方は、一般には好まれない,日语, 「どうも」の語源については、柳田によれば ,確かに朝起きてから夜寝るまで、日常生活のさまざまな場面で決まって用いられるあいさつ言葉も豊富である,日本人にとって、はっきりしたイデオロギーとか思想を持つひとは、警戒ないし敬遠される, 1.3、あいづち |