(4)感謝や謝罪の気持ちを表す挨拶の語に添えて、その意を強調する,これは日本語の「すみません」という言葉が、相手に対する申し訳なさを表すだけでなく、「ありがとう」という感謝の気持ちも表すだから,後半を略して感動詞的にも用い、また、くだけた挨拶語としても用いる,それが日本語の言語生活を支配し、日本語の語法に微妙に跳ね返る言語習慣である,三省堂から出版された「大辞林」で、「どうも」について調べてみると、次のように出てくる,日语论文, 日本語には類似の表現はありすぎて、枚挙にいとまがないぐらいである,いろいろ努力しても。
『広辞苑(第5版)』にて「曖昧」の意味を調べると、「確かでないこと,曖昧さや婉曲を好むという日本人の性向が日本人の根本に根ざしているものだとよく理解しなければいけないと思う,最近、そのような傾向がいっそう強まる気配を呈しており、話し手本人の感触などをあらわすような場合でも使われるようになっている, 本章では、言語表現上の曖昧さから日本人の曖昧性を見てみることにしよう,自分のために相手がやってくれたことなのに、「ありがとう」などの感謝の言葉ではなく、なぜお詫びの言葉が使われているのか,軽い謝罪や感謝、ひいては、挨拶などにも使える便利な言葉である。 日本人同士では、相手を傷つけずにうまく断る措施がよく用いられる,それで、日本語は曖昧であるからよくないとか、劣っているとかといった考えになってしまったのでは、正しい日本語の勉強はできないと思う。 言語は艺术を反映する「鏡」である,例えば、何かを食べたときに、「これ、おいしいかも」。 日本語の学習では日本語の曖昧なところや、同じ単語でもまったく正反対の意味になったりすることがよくある,ここでは言外の意味の類をみてみれば、日本人の言語習慣の一端を考察してみることにする。 くやしい死ではない,それから、日本語の曖昧さをを通して、日本人の言語習慣と心理を述べる,日本語の言語艺术はよく」「察しの艺术」「思いやりの艺术」といわれる,何とも, これは日本人の謙譲表現である。 1 .3 多義語の類 多義語であるがゆえに、日本人独特な語感、つまり、さまざまな意味を一つの語句で表現したがために、外国人には曖昧だなという印象を与えてしまったのであろう,すなわち不明確、不明瞭なもの・ことを指すと考えられる。 このような感想を抱いている外国人は少なくないと思われる,「何もございませんが」文字通り「(食べ物が)何もない」わけではなくて、「(あなたにとってごちそうと言えるような物は)何もない」という意味である, ●「あの件、どうなりました」 あれ、あの、それ、その、といった「こそあど」言葉もよく使われるのが日本語である,好きだと思うものに対して、「好きかも」,」とある, 1 .2 言外の意味の類 |