だから、「ちょっとそこまで」と言われれば安心して「あ、そうですか」となるわけである, 日本語に曖昧さがあるのは、日本人の相手に対する思いやりであるという説もあるが、日本人はできるだけ自分の考えを表したくない、旗色を鮮明にしたくない、それはリスクを増やすだけでチャンスを招くことにはならない、だから引き合わない、でも生きていくためには一応最低限の意志疎通はしなければならない。 日本人社会は人間関係を優先し、「和」を大切する,「本音」というのはその人の本当の気持ちである,行きたいと思っていても「行きたいかも」と言っている,例えば、人に「映画がんを見に行きませんか」と誘われた時、「行きたいですけど、今日はちょっと」と言えば、この場合は「せっかく誘っていただいたのだし、行きたい気持ちはあるのですが、残念なことに別の予定が入ってしまいました, (3)軽い驚きや困惑の気持ちを表す。 物事をはっきり言わないで、高度な婉曲表現が発達している言語だと言えるでだろう,例えば、「くやしい」という言葉には、「試合に負けてくやしい」「彼はやりたいことはやった, 日本語の曖昧さから見る日本人の国民性 はじめに 日本語を学習し始めるときからよく「日本語はとても曖昧である」という話を聞かされる。 はっきりしないが、なんとなく,単語や文法を覚えるとともに、その深層にある思想や意識も探求するべきだ,日语论文,いやはや,日本人はずばりと言うことを避けていろいろな意見を発表する,日语毕业论文,こうなってくると、日本人というのは本当にはっきり言いたくない国民なのか、それとも、ふと適切な言葉が見つからなくなるのか、聞き手に推測してくれることを期待する「甘え」というものが感じられるのである,引越しの手伝いをしに来てくれた会社や学校の人に、奥さんが「お疲れのところを、お手伝いをお願いして申しわけありません」と言ったり、快く頼みごとを引き受けてくれた先輩に、後輩が「すみません、お忙しいところを」と言ったりするような言葉がよく日本人の会話に出てきる, これに似たような言葉や表現が日本語に数多く存在している。 日本語がしゃべるとき、相手の気持ちに対する配慮や遠慮を伝えることを重視する,ご近所として、遠くまで行くのか、近くですぐ帰ってくるのか、あるいは、何か緊急な用事ができて、近所として手伝うなどの必要があるのかどうかを確認しているだけだと言える,一つは、「外国人は日本人とは違う特別な存在で、その外国人が日本語を話すのは大変珍しい」という、対等な扱いをしていない意識だ,「ちょっとそこまで」では、答えになっていないわけであるが、この場合、質問したほうも具体的な目的地を聞いているわけではなさそうである, ●「かもしれない」 「かもしれない」や「かも」は日本人が常用している言葉の一つである、西欧諸国のビジネスマンの間では日本人のことを「maybe」民族と呼んでいるといわれているほどだ,最後に、どのように曖昧語を理解するかを説明しようという試みである。 (2)原因・理由が判然としない意を表す, また、日本人は人に会うと「どこまでお出かけ」「ちょっとそこまで」というのもよくある,「どうもだめだな」「「先日はどうも」「先ほどはどうも」「どうもありがとう」「どうもすみません」「これはどうも」「どうも、どうも、ご面倒をおかけしました」等のように、日本人は「どうも」を連発する,これらの二つとも、異艺术の人を特別視する意識に根ざしているから、言われる方は、その隠された意識を敏感に感じ取る, どうも: (副) (1(多く打ち消しの語を伴って)できるだけやってみても, 1 .1 日常会話の類 「日本語は曖昧である」ということがその理由としては、性数の変化がないといった言語的な特徴もあるかもしれないが、言語というものは、そこに使う人がいることでさまざまな特徴が形作られることから、やはり、その言語を使う人々の民族性・国民性、考え方などに起因するところが大きいのではないかと思われる,まぎらわしく、はっきりしないこと, ●「何もございませんが」 日本人はお客を招くときに、大変豪華な料理がたくさん用意されていて、よく「何もございませんが、どうぞ召し上げってください」と言うことがある, 例えば外国人は片言の日本語をしゃべると、すぐに「お上手ですね」と褒めることがある,また、「大阪人のノリとかいうあれですか」とか、「何度も使えてお得だというあれですね」という場合の「あれ」もある,それも日本人の交際艺术の一種である, 「日本人はどういう時に、どのような意味で、「どうも」を使っているのか、さっぱりわからない」という学習者がいる, 1. 曖昧語の 言語表現 周知のように、民族性や艺术面での影響で、日本語表現は「曖昧」であるということがよく言われる, 同様に、「すみません」も謝る場合、感謝を表す場合のどちらにも使える, 日本人の会話では相手と自分の意見が違う場合、たとえそれが正反対であっても、あえて「そうじゃない」や「私はそう思わない」などと言わないで、「そうかもしれない」と、一応、相手を認める形で、「妥協的に」譲歩するような言い方をすることがある,それについて、部外者には当然のことだと思い、特に気に留められることが少ないが、部外者にとって不可解で気になるものが多い,「建前」は、「原則として」とか、「表向きには」と言う意味である,本当に申し分けないのですが、今回はいけません」などといった言外の意味が含まれていることが相手伝わる,「あの件」などと言われると、聞いているほうも「ああ、あの件ね」と、とっさにどの件だったか推測する必要がある。 1.4 婉曲法の類 , 本論では先行探讨を踏まえながら、まず日常会話の類や文法的な面などから曖昧語の言語表現について略论する, |