1. はじめに 3. 自动词と「(ら)れる」、「ことができる」との共起 4. まとめ 5. 参考文献 以下是论文正文 1. はじめに 可能表现に関する探讨の多くは、可能が有情物の动作·状态の可能であるとしている.そのような探讨の代表例として、藤井(1971)、青木(1980)、小松(1995)、津田(2017)などが挙げられる3).また青木(1997)は、自动词に注目し、可能の形式「(ら)れる」と「ことができる」には主体の意志性が大きく関わっていると指摘し、主体が非情物の场合には、拟人化と捉えられるものは别にして、自动词に可能の形式をあてることができないとしている. 一方、奥田(1986)のように、非情物においても可能表现が存在することを认めている探讨がある.奥田は、可能には「ある动作·状态を実现する能力が物にそなわっている」という意味を伝える「能力可能」があるとし、「能力の所有者としてあらわれてくるのは,かならずしも人间にかぎられるわけではない.人间以外の物をさししめす名词も、主语の位置にあらわれることができる」と述べ、(2)のような非情物の「性质」に関する可能表现を、(1)のような有情物の可能表现と同様に、主体の「能力」に関する可能表现と见なしている. (1)森のなかでは、伐木作业がかれをなぐさめるにちがいない.かれは、森にいけば、いつも一日に三十贯以上の割り木をつくることができる.(奥田1986:188) (2)この结果、质量のじゅうぶんおおきな物质は、位置とはやさのいずれもが同时に确定した値をもつ物理的な状态にちかづくことができる.(同上:189) 有情物の能力が有情物の意志によって実现できるのに対して、非情物は意志を持たないため、非情物の性质は自らの意志で実现することができない.このような异质のものを同等に扱うのは妥当性に欠けているように思われる. 2.自动词の可能表现に関わる要因 吕(2017)は、「动词の意志性」、「主体性」、「事态の性质」が、无意志自动词が可能表现に用いられるか否かに関わる要因であると指摘している.この指摘は无意志自动词のみでなく、自动词全体に当てはまると思われる.本稿では、この探讨成果を援用しながら、考察を进めていきたい.以下に、吕(2017)に基づき、これら3つの要因について述べておく. まず、动词の意志性について见てみよう.动词の意志性はつまり仁田(1991)で言う「自己制御性(self-controllability)」4)のことであり、それには段阶性がある.仁田の考えを援用し、动词の意志性の度合い、すなわち事态に対する主体の制御性の度合いにより、自动词は「自己制御性を持つ自动词」(例:走る、渡る)と、「过程の自己制御性を持つ自动词」(例:落ち着く、胜つ)と、「非自己制御性を持つ自动词」(例:咲く、混ざる)に分类することができる.これは次页の図Ⅰのように示すことができる.轴の右に行けば行くほど、动词の意志性の度合いが高くなるにつれ、自动词は意志自动词に近付き、可能表现に用いられやすくなる.主体が事态の结果まで制御できるほど意志性が高くなると、动词は自己制御性を持つ自动词、つまり意志自动词になり、一般的に可能の両形式と共起できるようになる.次の(3)が非文であるのに対して、(4)は可能表现として成り立つのは、(3)における「混ざる」より、(4)における「助かる」のほうが意志性が高いからである. (3)a. 水と油は混ざれない. b. 水と油は混ざることができない. (4)a.人间が地震に対して无力だとあきらめることはない.前もって适切な対策をとれば助かれるだろう. b.人间が地震に対して无力だとあきらめることはない.前もって适切な対策をとれば助かることができるだろう. 図Ⅱのように示すことができる.轴の右に行くにつれ、主体が有情物に近付き、その主体性が増すとともに、事态の成立に対する関与度も高くなる.轴の右に分布する主体ほど、可能表现に用いられやすい. 下记の例文を比较してみよう. (5)a.屋根は半分开いており、写真のように雨に打たれたければこうして自由に濡れられる.牛をあくまで自然の状态に近づけた饲い方が行われている. b.屋根は半分开いており、写真のように雨に打たれたければこうして自由に濡れることができる.牛をあくまで自然の状态に近づけた饲い方が行われている. 以上、自动词の可能表现に関わる3つの要因について见てきた.これらの要因はそれぞれ単独で存在しているものではなく、互いに繋がっている関系にある.そして、自动词が可能表现に用いられるか否かに対して、同时に関与していることも少なくない. 3. 自动词と「(ら)れる」、「ことができる」との共起 |