1日本语の近代化
日本语の近代化がいつ始まったかについては、探讨者によって见解が异なるが、本格的な近代化は、やはり明治期以降と见るべきであろう。それを促したのは、欧米艺术との接触ということができる。欧米の艺术に触れることによって、人々は日本语について考え、日本语がいかにあるべきかについて模索した。 その具体的な现れが、言文一致运动や国字问题や外来语などについてのさまざまの提案である。 1.1 外来语 十六世纪ごろは全世界の大航海时代における 「冒険の时代」から「征服の时代」へと移行した时だ。 欧米の言叶が日本にはいってきたのはその时のポルトガル语やスペイン语が最初であるが、その後ァ¢ンダ语も入ってきた。 明治期になると英语が多くなり、フランス语やドイツ语も取り入れられた。 その结果、江戸期で使われていた外来语がすたれ、新しい外来语と交替するものも交替した。 例えば、ドンタクに代わってサンデーが使われるようになり、バッテラはボートと交替した。 もっとも早く普及したのが、ヘボン式の缀りである。 ヘボン式と呼ばれているが、この缀り方を考案したのはヘボンではなく、罗马字会で考えた方式を、ヘボンが「和英林集成」の第三版(明治十九年)で采用したことから、ヘボン式と呼ばれるようになったのである。 この缀り方は、のちに改订されて、标准式と名付けられた。 一方、田中舘爱橘は五十音図を基に、日本式と呼ばれるローマ字缀りを考案した。この缀り方は、日本人には使いやすいが、実际の発音と离れる场合があって外国人には分かりにくいという难点があった。 そこで、この二つの缀り方を折衷するものとして、昭和十二年に内阁训令で训令式と呼ばれるローマ字の缀り方が告示された。 具体的に言えば、ローマ字は、戦後になって小学校の教学に取り入れられることになった。 初めは训令式、日本式、标准式のいずれによて教学しても良いとされていたが、後に単一化が図られ、昭和二十九年「ローマ字のつづり方」が告示された。 1.2 共通语 この时代の共通语もすでに今日の共通语の母胎と思われるものが、存在していたと考えられる。 共通语の基になったものとしては、大势の人を前にして话す时の言叶と改まった席での対话が考えられる。 1.3 教科书 西邨贞が书いた「幼学読本」は他の教科书に多く见られる「デアリマス」を代わりに、「デス」が使われており、「ダ」で终止する例もかなり见られる。 対话の例だけではなく、説明の场合も谈话体から口话体へと移りつつあることを示していると言える。教科书はやがて明治三十七年から国定教科书となるが、第一回の国定読本ははっかりと、标准语による口语文が出来上がった。 1.4 国字问题 日本语をどのように表记すべきかは、明治期以降の大きな问题となった。 その発端が、前岛密の「汉字御廃止之仪」とよばれる建白书である。 その中で、前岛が人々が学问をする上で妨げになる汉字を廃止して仮名を用いるべきだと提出した。 汉字の习得が教学における障害となるとして、それを如何に解决すべきかについては、大きく二つの方向がある。一つは、汉字を全て廃止してしまおうというものである。 もう一つは、汉字の数をできるだけ制限して、汉字を习得するための负担を少なくしようとするものである。现在は、後者のやり方がとられているわけである。前者の场合は、次の三つの立场がある。 A 平仮名か片仮名を用いる。 Bローマ字を用いる。 C 新しい文字を采用する。 平仮名を専用すべきだとする団体には、明治期に「かなのくわい」があった。 大正期に入ると、片仮名を専用すべきだとする人たちが现れ「カナモジカイ」が出来た。 「カナモジカイ」が草案した片仮名の文字は、今日コンピュータによって処理される文书で用いられている。 1.5 标准语の制定 まず、作家の著作によって、声をめぐる问题で、方言から童话、东北话、普通话までだんだん定めに来った。 代表作は宫沢贤治の「注文の多い料理店」、国语学者である上田万年の「国民文学を兴さん」、安田敏朗の「国语と方言のあいだー言语构筑の政治学」などだ。それから、普通の选挙法がとりもなおさず、野间清治の「雄弁」は普通の选挙に通じて演説の日本语を创り出そうという言叶を书いてある。 阶层化される日本语は川端康成の「伊豆の踊り子」でよく表され、植民地の日本语がだんだん决まられた。 2第二次世界大戦前後の日本语 2.1 流行语 |