ル-ス?ベネティクトの『菊と刀』(长谷川松治訳)によれば、日本人は耻辱感を原动力にしている.明らかに定められた善行の道标に従いえないこと、いろいろの义务の间の均衡をたもち、または起りうべき偶然を予见することができないこと、それが耻である.耻は徳の根本である、と彼らは言う.耻を感じやすい人间こそ、善行のあらゆる掟を実行する人である.「耻を知る人」とは、あるときは徳の高い人を、あるときは名誉を重んじる人を指している.日本人の伦理において「耻を知ること」は西洋の伦理において「良心の洁白」、「神に义とせられること」、つまり、罪を避けること占めているのと同じ位置を占めている. つまり、日本人の生活においては、耻が最高の位置を占めている.耻かしいと言う気持ちがなくなれば人间は终わりだ.日本人の行动规范は、耻にある.彼らは何をしても、「もしそうすれば、、笑われるだろうか.」「周囲の人はどう思うか.」「人の目に自分がどう映っているか」をとても気にする.いずれの场合においても、耻は强力な强制力となる.もちろん、日本人にも罪の意识が存在する.ただ、日本人は、罪の重大さより耻の重大さに重きを置いている. だから、世界の艺术を「罪の艺术」と「耻の艺术」に区别すれば、日本の艺术は间违いなく「耻の艺术」に属するに相违ない. だが、なぜ日本人はそんなに耻を大切にするのか.耻の艺术がうまれたのはなぜだろう.それは社会的な原因によるものと思われる. 「耻の艺术」が出现するのは日本の社会的な构造と深い関系がある.はるか弥生时代に始まる稲作艺术の作用がある.日本は农业国であり、水稲耕作のため昔から村落共同体を形成していた.村落社会は、「家」を単位として、その家族共同体(「家」のメンバ-)は紧密な结合関系にあり、村落共同体には闭锁的な人伦共同体が形成された.そこで亲密な感情的、情绪的な人间関系が形成されていた.农村では今日もなお、田植えや稲刈りには近隣同士が助け合い、共同作业を行う习惯が一部に残っている.狩猟艺术と异なり、定住水稲耕作を维持するためには、常に集団作业と共同体秩序とが必要であった.また、儒教思想の作用も无视できない.徳川幕府は朱子学を取り入れたので、忠孝を重んずる道徳は江戸时代以降特に広まり、「家」制度の强化にもつながった.家长を始め,家族の成员は「家」に従わねばならず、武士阶级は一朝事あれば、御家断絶と、连帯责任を取らされた.独立した个人の意思、个人の主体性は形成されようがなかった. こういう背景の中で、日本人は自分の行动に対する他人、特に共同体の成员の批评に常に気を配っている.他人と违う行动をとることを避ける倾向がある.他人がどう思うかを気にし、絶えず他人とバランスをとり、他人から作用を受けたりする.つまり、自分が他人に迷惑をかけているかどうかである.このような见方、态度、行为によって、「耻の艺术」といわれる日本人の国民性が形成されてきた. 二、昔の日本人の耻意识と现代の耻意识との比较 人间の社会は常に発展している.原始社会から、现在の资本主义社会、社会主义社会へと発展してきた.人间の意识も変化している.日本人の耻意识も例外ではないだろう. ここでは日本の社会を戦前と戦後に分けて考えてみたい.戦前の日本は絶対主义的天皇制が支配する社会にあって、阶层制度はとても厳しかった.『菊と刀』に取りあげられているが、日本人には「各々其ノ所ヲ得」という観念がある.この観念も戦後しばらくは残りつづけていた.封建的な阶层秩序に従って、各人は自分にふさわしい位置を占めていなければならないのである.明治维新後はじめて、近代化の道を踏み出し、工业、特に重工业はずいぶん発达して、都市化も始まったが、农业はやはり主要な位置を占めていた.まだ封建的な农村共同体であり、工业に比べると农业の発达は钝く、米作を柱とする零细経営が営まれていた.贫困な农村共同体は低赁金労働力の温床であった.ここでは特に「孝」を美徳にして、「家」が守られており、そのために、戦前の日本の耻意识はとても强く残存していた. |