ところで「人に迷惑をかけない」という道徳基准では、今、日本の大きな社会问题となっている女子中、高生の「援助交际」を道徳的にもとる行为として非难することはできない.「谁にも迷惑をかけていないよ」、「何をしようと私の胜手でしょ」、「あなたには関系ないでしょ」と反论されるからだ.つまり、「お金がすべて」という时代において、「他人の目」を気にしていないと言うことからこのような行动が生まれていると言えよう.また、人知れず、どこかで若者が自杀した场合も「だれにも迷惑をかけない行为」として、「耻の艺术」ではこの行为を非难することは困难なのだ.この点、「罪の艺术」では、神によって内面化されている性と生命の尊さを根拠として示すことができる. 「耻の艺术」にも「罪の艺术」にも长所もあれば短所もある. 「罪の艺术」としての良い面は、神や自らの良心が判断基准となるから、他人に振り回されない主体性や自主性、自分で道を拓いてゆこうとする开拓精神が生まれやすいと思う.他方、他人に左右されないという点は、人の话を闻かない、协调性がない、独善的になりやすいということにまでなってしまうかもしれない. 「耻の艺术」は他人の目に左右されやすいので、周囲に対する気遣いや心配り、谦虚さや协调性などということを结果するであろう.それが日本人には美徳とされていることでもある.しかしこれも悪くすれば、「赤信号みんなで渡れば怖くない.」といわれるように自分の判断による正しい行动を取ることができないような结果となり、本来渡ってはいけない赤信号でも「みんなが渡るのならまあいいっか!」と流されてしまうような迎合性や、主体性のなさ、あるいは信念のない生き方につながる倾向を生じる. このようにベネティクトの言う「外面的强制力」は、「罪の艺术」とは违って、自分の内面に神(絶対的基准)を持たないがゆえに、まず、外面(他人の存在)を気にする行动を取らざるを得ない、そのような行为のあり方を示している. 四、「耻の艺术」の日本の社会に対する作用 「耻」を重んじる日本人は、二つの问题点を持つ.第一に、个人の自立性を育てにくい倾向となりやすい.个人においては个としての厳しい责任感に里打ちされていない「甘え」の态度を育てやすいとともに、个人を取り巻く周囲の人々は新しい理想に生きようとする个性を抑圧する倾向を持ちやすい.それで多くの日本人はいつも他人と似たような生活を送っている.彼等は仲间外れにされることを恐れる.自分を强く主张することや周囲の意见と违うことや、个性を展开することなどを好まない.だから暧昧な言叶や、婉曲な意见など色々日本人に特有な现象が现れる.つまり日常生活の中で、模仿が多くなって独创が少なくなる.更に、日常の会话でも、同じような価値観がひょいと顔を覗かすことがある.第二に、自分の属する集団以外の社会に対しては、无関心で无责任な态度を生みやすい.たとえば、「旅の耻はかき舍て」である. 「耻の艺术」には否定的な侧面があるかもしれないが、角度を変えてみれば、「思いやりの艺术」ともいえる.世间の一员である自分は自らの行动次第で、耻をかいたり、世间から名誉をえたりする.世间に迷惑をかけないように他人に思いやりをもって行动をすることが求められているからである.これは耻の艺术の积极的な一面である. もう一つの积极面は耻の艺术は日本社会発展の原动力であることである.ル-ス?ベネティクトは『菊と刀』で「日本人は耻辱感を原动力にしている」と述べている.つまり、耻が行动の原动力となっている.场合にふさわしい服装をしなかったことや、何か言い损ないをしたことで、非常に烦闷することがある.この烦闷は时として非常に强烈なことがある.これに人々の行为は拘束されている.真の耻の艺术は外面的强制力に基づいて善行を行う.常に耻は强力な强制力となる.ただしかし、耻を感じるためには、実际その场に他人がいあわせるか、あるいは少なくとも、いあわせると思い込むこと、さらには、今、その场にいなくても强く意识する他人が存在していること、が必要である.例えば、名誉のために、自らの心の中に描いた他人に対して理想的な自分にふさわしいような行动をする.つまり、みんなが耻という同じ规则にしたがってゲームを行い、それをお互いに支持しあっているようである.こうして「耻」による(お互いを気にしあう)独特の集団意识が形成され、みんな一绪に顽张る.その结果、国の発展も促进されている.この耻の意识は中国人の道徳にはあまりみられないが、日本の発展の人的な原动力になっているように思われる. 结论 |