すでに天下へと仏教が広げられ、ならば万民に信仰させ、国の安泰のため仏法を発展向上させるべきである.しかし、事実はそうではなった.国家を守护し天皇制を固められると宣伝された仏教が、最初からも政治宗教となった.朝廷に守られ、お寺などがよく町の周辺で建てられる故「都会仏教」とも呼ばれた.兴隆期となった奈良时代の日本仏教は、インドと中国での伝统仏教と违い、基本的な戒律さえも离れ、僧侣は民间へ伝教するようなことをせず、単なる贵族たちに仕えるだけである.ついに国の政に手を出すこともあり、朝廷を左右する势力となってきた.こういう时期の仏教は新たな事物として政権争いに利用され、これも後に仏教の日本化の兆候となったわけである.しかし、宠爱を一身にしても、所诠外来宗教や政治道具である.律令国家の确立に伴い、天皇の力がますます高き、苏我氏一族を始末してからやがて君临するようになった.伝统権威を代表する神道も言うまでもなく新たな高位に置かれた.大化の革新に制定した「大宝律令」によると、神の祭りなどを主管する官吏は天皇から直々の任命、太政大臣同级の者であるが、仏教诸事を処理する机构はただただ治部省所辖の玄蕃寮であった.神高仏低の状态における仏教がよい発展と権力の拡大を求めるには、やむを得ず神道にしたがうことにした.その表现の一つが神社で経文の朗読を许し、いわゆる「神前念仏」である. 初期仏教がつよい政治性を持っているのを除き、民间へ広がることのできないもう一つの原因は、人々固有の観念そのものである.宗教というと、それが现世のことを第一に、生活の安定さや幸せさを祈るはずだと思われた.ですから仏教の来世主义、死後の世界に憧れる考えが一时に纳得されるわけはなかった.一方、元来ただ神社に参ることで宿愿をかなえることが可能であるが、もし仏を信じるならば、山ほどの戒律や决まりを守らなければならないという恐れもあり、あまりにも実用ではなかった.これはさまざま不确定な要素に囲まれ、尊崇や冷遇の立场にあった前途不明の奈良时代仏教である. 第4章 所谓「无常観」 4.1 无常観の起源 「神」と「仏」の関系転换がただ二三百年かかったといっても、その过程はかなり复雑とは言えよう.いつも原始神道の感化で生きてきた庶民たちにとって、きゅうに别の「神」に信じさせるのは考えられないと思う.固有的な考えを破りにくいので、こういう时に観念転化は必要とする.『平家物语』を読むと、「熊野権现」、「八幡菩萨」などの言叶がよく见られる.特に比叡山の「山王権现」がなかなか権威をおち、山门衆はいつも神与振 の形で朝廷の命令に逆らうことがあり、朝廷を従わせる.日本の诸神に菩萨号を与え、菩萨の神力をつける新たな有力神を作ったわけである.これが本地垂迹である.「本地」即ち物の源や本来面目、ここは仏の本体を表す.「垂迹」は极楽の仏が万民を救うためあるものを借り日本で现れることを指す.そしてその借りものが日本の元来に存在している「神」である.日本の神々は、本々仏の恩恵を人たちに赐るため、现れる仏の「分身」である. |