本地垂迹の形で、仏教と神道の冲突を最大限度に下げることができた.人々の固有の信仰を溃せずに仏教の信仰へと导き、両者に対する信仰を折衷し一つの信仰体系として再构成することである.乱世に生み出した「无常」、仏教から出てきた往生思想、これらを交わして生まれるものは、「无常観」だと思う. 4.2 『平家物语』における无常観 前にも「无常」の意味を解釈したが、それはかなり简単で、なかなか理解できないであろう.実は、论理的なことをほうっておいて无常観つまり、何时も変化している现世に対して厌きを感じると言えよう.この厌きを积んだうえ、不満や辛さも出てくる.一旦そうなると、来世や未知の极楽世界に憧れることもやむを得ずに生じる.ここの「无常」は単なる乱世に対する动揺不安に気になり、世の中のことに信念を失ったばかりではない.中国でもどの国でも、昔には必ずある揺れる时期があるに违いない.その时の人间は、あくまで厌世という感情が出てくるだけである.しかし日本中世における「无常」は、それなりの特质があると思う.その表现の具体化は出家、隠遁ということである.前回の述べたように、奈良时代から神道の阴に置かれた仏教であるが、教理と精神実质のある宗教として决してそのままではいられなかった.神道が仏教の戒律などをかり、自らを充実していこうとして、神の御前の念仏を许したわけである.しかし、実は仏教こそこの絶好の机会で宣伝されることができた.神仏が同所で、神即ち仏、仏つまり神というような错覚は民衆の心に留まり、个人の利益を求めるために祈るなら、どんな神像に頼んでもよいではないかと思われた. この溶け合う中で、一番作用されたのが人々の考え、特に死生観そのものである.これらの代表的な例として、『平家物语』に登场した熊谷次郎直実をあげることができよう.无骨の武士である直実は、功名心から敌の头を切り、武勲をあげることに全精力を倾け罪悪感とは无縁なや武士的な人生を送っていた.しかし、「敦盛最後」にあるように、一の谷で、直実は彼の子供の小次郎と同年と思われる敦盛の首を、泣く泣くに切ってしまう羽目になる.その後、直実の人生に影を落としたものは、杀生を犯した者の罪业観と罪障観であった.それが彼の出家した原因とも考えられている.また、『平家物语』巻十の「戒文」を参考し、平重衡と法然 上人の交渉から、重衡の来世の死生観についてみてみよう.三位中将重衡は南都焼讨で悪名高いが、治承四年十二月に平家军は南都の敌を攻撃している最中に、図らずに东大寺や兴福寺などの诸事を焼いてしまった.その後、重衡は墨俣川の戦いや水岛の戦いで胜ったが、一の谷の戦いで捕まえられ、鎌仓へ护送されてしまう.彼は鎌仓へ护送の前には、法然を招いて出家しようと思った.南都の诸寺を焼き払ってしまった重衡は、罪の意识を感じ、往生への道が完全に闭ざされてしまったことを自覚した.しかしながら、どうしてもその罪障観から救済されたく、善知识である法然上人に少しの望みを托したわけである.意外なのは、ただの「一声称念罪皆除」と念すれば、何の罪でも消えていくと重衡に明快に答え、浄土宗の基本理念を表したのである.『平家物语』では、この世を无意味だとする精神が、往々にしてこの世を离れがたいものとする精神に圧倒されているのを次々の叙述の中に见ることができると思う.小松殿の息子?维盛が何とかして山伝いに京都へ上がって恋しい妻子にもう一度会いたいが、生捕りになった重衡のような目には会いたくない、いっそここで出家して、火の中へでも水の底へでも入りたいと思う、という意味のことを言うと、それに対して高野圣滝口入道が「梦幻の世の中は、とてもかくても候ひなん.长き世の闇こそ心受かるべう候へ.」と、言い闻かせるところがある.そこでは、この世を「梦幻の世の中」などと言って无意味なものとする精神が、优位を占めている.维盛の妻子にもう一度会いたいという気持ちは、それを持って现世的なものへのいたずらな执着だとする仏教思想によって、抑えられている.そのあたりは一応「断ち切る」物语の様相を见せている. |