本稿は日本の芥川龍之介(1892~1927)と韓国の李箱(1910~1937)という二人の作家について、<不安意識>という主題を接点に比較考察したものである。ほぼ同時代性を持つ彼らがどのように...
本稿は日本の芥川龍之介(1892~1927)と韓国の李箱(1910~1937)という二人の作家について、<不安意識>という主題を接点に比較考察したものである。ほぼ同時代性を持つ彼らがどのように近代人の不安意識を著作化し、また形象化したのかについて心理略论的な措施と主題比較的な研究措施を適用した。それは李箱が芥川龍之介の家庭の環境の類似性からある同質感を感じていたといわれているため、心理的な影響関係という側面からの研究の必要性からである。そこで本論文では二人の作家の著作に現れている<不安意識>についてその展開様相と叙事様式の問題、そして脱出の欲望について考察するものである。
第Ⅱ章ではまず、その不安意識の出発点として、養子意識という根源不在の同質感、次に文学への出発が二人の作家においてまさに自己否定と隠蔽の過程ということ、三番目に彼らの時代的な問題においても不安思潮と無関係とはいえないということについて考察する。その結果、第1節では成長過程で李箱が實家の親ではなく伯父の家で養育されたことや、大人になると實家及び養家の生計を立てていくようになったという家庭環境における要因が芥川の成長過程と類似していることがわかる。特に、養子の心(精神)の中には親という対象との関係(parental object relation)が両分されているため、彼らには実際に良い親や悪い親という二組以上の親が存在するようになる。ゆえに養父に自分の精神を押さえつけられた<童孩>として成長した李箱の文学の<不安>の要素や二組以上の父母らとの関係で生まれたアンビバレンスの論理は彼らの<養子>という意識からその源泉が窺える。したがって李箱と芥川との成長背景で現われている環境の類似は彼らの文学においての<不安>意識の出発点になっていると思われる。
また、李箱と芥川の文学への出発は、現実から何らかの不安を起こす欠乏状態や精神的な欲求が挫折した状態で始まったことが分かる。芥川は自我の認識過程において自己同一性を確立することができなかったという個人的な問題が数多く横たわっていたし、それを度外視しようとする過程からその不安意識が生じたのである。このような事実は李箱文学の源泉と同じ脈絡を持っている。彼も無学の實家の父母と離れて養子として育てられ、苦学した上、結核を患った。また植民地という1920年代の朝鮮の現実を脱することもできず、自閉的な知識人としての現実逃避的な観念の世界に入ることになったのである。言わば、二人の作家において共通の特徴は生の本質から逃避する傾向があり、それはいわゆる客観的真理に対する信頼が内部で既にゆらいでいるという事実につながっていることを意味する。それゆえ李箱の場合には人間の生という現実世界を幾何学とか数学で成り立った觀念の世界におきかえ、また芥川の場合はその現実世界が絶えず暴こうとする人間心理という文学的観念の世界におきかえたのである。
その次に両国の時代の問題とともに作家の不安意識について考察してみた。1920~30年代の韓国および日本は個人主義的世界観、人間観の敗北、そして世紀末の思想觀と無関係ではない時代であった。だからこそ芥川の死によって触発される時代的<不安>を多くの作家が自分たちの<不安>として認識しながら徐々に社会化されていく過程は、不安文学の系譜としてその頂点に至っているといわれる李箱の時代と重なる。李箱の文学は時代の危機意識において、1935年前後の日本における<不安文学>の流行と密接な関連性があると思われる。
第2節ではこのような不安意識が生じるほかなかった二人の作家の共通の要素を基盤に著作に現われている不安意識の表出様相について考察してみた。それは著作の主人公の不安心理を極大化する措施として、アイデンティティーの喪失を意味する自我分裂的なイメージと運命という力の前に挫折して絶望する不安な自我という形で現われた。また、その表現においても両価性(アンビバレンス)と関係のある二項対立的な文句は二人の作家に共通の不安意識の所産であるといえる。
李箱の著作の自我分裂の問題は人間の不安心理を最も端的に現しており、それは<鏡>という媒介物が使われることによって巧みに表現されている。このような現象は李箱の自意識が均衡を保つことができず、自己同一性を保つことが不可能であるということを現わすのであろう。自意識への永遠の不一致は不安を引き起し、果てしない苦しみに直面させる。それは自分ともう一人の自分という自我分裂的な主題として現われているし、 對他的な構図では疎外のイメージとして、そして世の中との調和が保てない自分は運命に絡まるよりほかない存在であることを認識する過程において、芥川文学との共通の主題意識があるように思われる。結局、このような主題は自我の成立に対する満足感の欠乏と自己の存在の不安定を認識しているという事実のあらわれと言えるだろう。すなわち、自意識の覚醒がむしろ自己否定につながっているという面においてはこのような自我分裂の描写は極烈な自我対立から出発した不安意識の所産であり、それがまた不安を引き起こす原因にもなっていることが分かる。不安が未来に対する危機、挫折、破局への予測から生ずる根源的な問題に係わることであるうと推測される時、芥川や李箱の著作に現われる自我分裂的な現象は存在に対する不確実性によって完全なアイデンティティーを持って生きることのできない不安な自我を表現した代表的な様相の一つである。
また、李箱と芥川文学では目に見えない運命の力を感じながら不安に捕らわれる主人公の姿がしばしば現われる。それはフロイトの言う予期不安症のような感じを与えながらも、未来に対する単純な不安意識であるというよりは、自分の宿命とも直結していることで死を前提にしているという点において類似性が見える。人間はいつかは死ぬものだという命題の前に誰もが自由ではないが、二人の作家の著作に現われた運命の力はそれぞれの病的要因、言わば結核と精神病という宿命と密接な関係があるといわざるをえない。日常での死の影が自身と他人に対して断絶を意味したり、また自ら疎外されることで自我に沒入する傾向を見せている。結局、自我の意志としては乗り越えられない運命の力を感じることによって、主人公の不安意識はより烈しくなるのである。
次に、不安意識の表出様相の一つとして両価性(アンビバランス)という表現の特徴がある。<両価性>とは互いに相反する思考などが同時に等価で浮び上がる心理的現象である。このような傾向は芥川の文学では二項対立的な文体として、代表的に「歯車」によく現れているし、李箱の文学では<対称点の論理>として表出されているのがわかる。これは前述のとおり不安定の<養子>としての成長背景と無関係であるとはいえないし、いわば不安という心理的な現象の所産であろう。
第Ⅲ章ではこのような人間の不安意識を最も效果的に描きだす<意識の流れ>技法と私小説的傾向という叙事様式について考察した。まず、第1節では李箱と芥川小説の特徴の一つとしてその技法において、<意識の流れ>という西欧の理論をモチーフにして人間の内面意識と深層心理の探求に力を注いでいることがわかる。このような敍事技法により彼らの小説が<詩的小説>として成り立ち、その結果、叙事性が弱化する傾向が現れた。これは個人の不安定な自意識と、主体が叙述の対象としての現実の不透明性を認識していることを意味するのである。
第2節では芥川や李箱の小説に現われる私小説の傾向の叙事方式と作家の個人的な生の危機意識との関係について考察してみた。李箱は初期著作からもう自身を小説化する。その過程で<結核=死>を意識する状況は彼の最後の著作である「終生記」に至るまで一貫して<ポーズ>化されることになる。一方、芥川も私小説への技法の変化はいわゆる、<狂人>の母親を思い浮かべることにより<狂人として死ぬ>という意味を示唆していたのであろう。したがって、芥川と李箱の文学に現われる私小説の傾向は、彼らの<生の危機意識>を内包する不安定の無意識的自我の表出という共通のメカニズムがあるといえるだろう。
第Ⅳ章では二人の作家にその不安意識から脱しようとする欲望においての三つの類似点について考察してみた。まず、死(タナトス)への欲望があらわれる。芥川の「歯車」には主人公の心細い日常が描かれている。そして主人公の感じる恐怖は生きていくことそのものに対する恐怖であるといえ、そこから脱する措施は死に至る道であり、このような論理は李箱の著作でも窺える。彼の「終生記」はその題名どおり生を終える記録であるが、極めて平凡な日常が描かれている。以前の彼の小説のように恋人との出会いもあるが、死に対する恐怖よりむしろ生きていくことそのものに対する不安感が現われている。したがって、芥川の著作に現われている主人公らは人間の不安意識から脱する手段として死への欲望を見せている。これは李箱の著作でもしばしば現われている自殺への志向と重なる面を持っていると言えるだろう。
さらに、李箱や芥川文学に共通してみられる特徴の一つとして、不安の自意識を持つ主人公らがその不安定な状況を脱するための一種の方便として、ナルシス的な気質を見せるという点があげられる。そのような人間らは自然に自己疎外や自己閉鎖の傾向を内包するようになり、それゆえ芥川の著作に現われた人物たちは他人から理解されない<孤独地獄>に陷っている疎外された自我像として描かれるのである。これは李箱の文学にも見られる。大方の李箱の著作は社会から疎外されたアウトサイダーが主人公であり、彼らは社会や家族からさえ断絶された人物である。このような人物の特徴は失敗したインテリゲンチャでもあり、同時に自我に沒入しているナルシス的な両面性を持っている。ゆえに、ナルシシズムが根本的に含んでいる二律背反の問題が彼らの著作の根底に流れる思想となるのである。
第3節では李箱が芥川の<人工の翼>のイメージをパロディーにしているが、芥川におけるこの<人工の翼>の意味は彼の上昇志向的の芸術魂の象徴物であった。しかしその不安定な現実からの脱出欲求はつまり、翼はあるが飛べないという意味あいを持つ芥川の<剥製になった天才>という自意識につながる。一方、李箱の<翼>のイメージにもやはり絶望の意味が含められているが、下降志向的な生活から脱しようとする現実への帰還という意味がある。このようなイメージの違いは、李箱においてはまだ新しい生を目標とする東京行きが残っていたが、芥川にはもう<発狂か自殺か>の死だけが残っていたからであろう。
以上のように、二人の作家の著作における<不安意識>という主題は人間の持っている存在の不確実性、または自我解体の自覚という側面ではきたるべき新時代の文学に大きな反響を呼び起こしたのであり、個人の苦悩を越えて近代精神の解体を新しい形式で見せてくれているという点にその意味を求めることができるだろう。
今後の課題として、李箱文学に現われるキリスト教の要素と芥川文学との相互関連性を扱ってみる必要があるだろう。何故かというと、20世紀の不安思潮は神の死から出発し、どこにも頼りどころを求めることができなかった近代人の実存的な不安意識と深いかかわりがあるからである。
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