임화 문학론 연구 (3)[韩语论文]

资料分类免费韩语论文 责任编辑:金一助教更新时间:2017-04-28
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本論文は、植民地朝鮮のプロレタリア文学の詩人・評論家であり、プロレタリア文学団体・カップ(KAPF、朝鮮プロレタリア芸術同盟)の委員長をつとめた林和(1908-53?)が、その生涯をかけて残した、詩、評論、文学史論、映画論など多方面にわたる数多くの作品の内容を検討し、そこにみられる「主体」概念の変遷を、特に植民地において民族がおかれた状況や、その歴史的な位相をどのように解釈するか、文学的実践につなげていったかとの関係で検討するものである。 Ⅰ章では、1930年前後にプロレタリア文学陣営の内部でおこなわれた芸術大衆化論争について、ソ連やドイツ、中国・台湾、日本のそれと比較しながら、植民地朝鮮の論争の特徴を指摘した。植民地朝鮮の芸術大衆化論争において、金基鎮は数多くの評論で大衆化のさまざまな方案を提案しており、その量と質において他の追随をゆるさない、高い水準の議論を展開していたが、東京の無産者社にいた金斗鎔や林和によって数回にわたって批判を受け、そのまま議論が収束していったという経緯自体にも、朝鮮における芸術大衆化論争の特質が見られる。さらに、この論争で特徴的といえるのは、林和の物語詩、いわゆる「短篇叙事詩」に対する評価が焦点化されたという点であろう。ソ連やドイツの労働者通信員運動でも、詩の創作措施が議論されたことがあったが、特定の個人の、しかも物語詩がこのように焦点化されることはなかった。また日本での議論においても、大衆化論争の当事者である中野重治は、当時、やはり詩を書いていたが、彼の著作について論争のなかで大きく焦点化されることはなかった。それに比べて朝鮮の論争では、林和という特定の個人の物語詩が大きく焦点化されたことが特徴的であった。 Ⅱ章では、前章で扱った芸術大衆化論争の際にも言及された、林和の散文詩、物語詩についてその特徴や性格を検討した。林和の詩のうち、物語詩と呼びうる著作群の顕著な特徴は、通常の抒情詩のように単純な自然風景がその舞台や背景としては全く選ばれていないことである。たとえば、話者が直面しているものが都市の街角でも、あるいは海や山でも、その植民地性が強調された風景ばかりが選ばれる。林和の詩において、海=玄海灘と同様に重要な場所、植民地の風景として重要なのが、ソウルの鍾路十字路である。林和が「半島八景」の一つとして挙げたこの場所は、運動の同志が出会い、互いに励まし、時に涙を流す、そのような物語を支えるトポスだったが、林和はこの鍾路の十字路を詩の舞台として、連作とも言える詩を生涯にわたって残し、革命性や植民地性が前景化された現場を強調しながら、その対立や矛盾のありかを暴露し提示した。 Ⅲ章では、林和が1930年代中盤から後半にかけて行った、当時の小説著作に対するリアリズム批評の内容と目的、さらにその動力やモチーフについて論じた。林和は、小説論においても、分裂・対立と統合・止揚という視角で、独自のリアリズム小説論を展開した。彼の評論「世態小説論」(1938.4)が典型的なもので、同時代の小説の傾向として、内省的なものと世態的なものが同時に出現していることの意味を問うて、その原因が、語ろうとするものと描こうとするものの分裂にあるとした。そのような視角は、当時、マルクス主義文芸の理論家であったG・ルカーチ(G. Lukács)の「全体性」(Totalität/totality)の理論と共鳴している。ルカーチの場合は、ブルジョア文化の二律背反を解決するために、プロレタリアートと前衛が見渡すことができる「全体性」の観点を確保したものだった。林和の場合は、それを転向小説の主人公にも適用し、性格上の欠如、すなわち、人物よりも描写に重きをおき、登場人物が行為する性格でなく、生活する市井人になっていることを「現代小説の主人公」(1939.9)などで指摘し、世態小説論のときと同様に、分裂の克服と、ある種の全体性へ指向を主張した。一方で、1931年に満洲で起こった朝鮮人農民と中国人農民との衝突事件である「万宝山事件」を描いた、李泰俊の短篇小説「農軍」(1939.7)に対しては、哀愁と悲哀の感情が悲壮に近くなり、悲劇の壮大さを彷彿とさせ、一民族の受難史の運命、大きな悲劇のなかに隠された叙事詩の感情が描かれているとして絶賛した。林和のリアリズム論はここで、民族の悲哀や喪失感の表出によって「主体」を確保することで、みずから帝国の論理を内面化した。 Ⅳ章では、林和が朝鮮の新文学史を執筆する間に発表した評論「新文学史の措施」(1940.1)と、そこで議論された文化の移植性、さらにそれに対する解放後の韓国での批判について検討し、あわせて文学史において「朝鮮的なもの」はどのようなところに見出せるかという点について、林和の見解をまとめた。「新文学史の措施」(1940.1)は、彼が書いた「概説新文学史」(1939-41)の措施論を論じたものだが、朝鮮の新文学の歴史が日本を通じた西欧文学の移植の歴史であったとした点が、当時でなく後年、韓国の文学研究において問題になった。この「移植文学論」は、しかし、林和の文学史論で幅広いスペクトラムを持った措施論であり視角であった。それが適用されている一例として、朝鮮の文学史に漢文学の歴史を編入するという、民族や言語に対する独自の考え方があった。 Ⅴ章ではさらに、林和が1930年代の中盤、「新文学史」の叙述を始める以前、「朝鮮新文学史序説」(1935.10)を叙述する前後に発表した、いくつかの言語関係の論文について論じた。この時期の彼の言語論は、彼自身の文学史叙述の前提であるにとどまらず、当時の植民地朝鮮の状況に呼応する見解でもあった。林和は、当時のソビエト連邦における言語論や言語政策を積極的に参照しながら、民族語としての朝鮮語がどのような環境におかれているかを強調した。また同時に、朝鮮語の歴史についてふりかえり、ヨーロッパにおける俗語の登場と朝鮮の開化期以降の国文の復権とを重ねて考えながら、民族語=朝鮮語の内容と生成過程についてさらに具体的に検討した。 Ⅵ章では、最初の近代文学史叙述といえる林和の「概説新文学史」の構成原理について検討し、そこで朝鮮語や朝鮮人という主体をどう考えていたかを検討した。林和は、朝鮮文学の古典に対する評価において、史的弁証法的な視角から、反復古、平民の文学に対する言及を強調し、また、分裂・対立とその止揚で、民族文学が生成することを示しながら、李光洙の文学著作の内部にある矛盾やイデオロギー性を克服すべく、『白潮』派や新傾向派の文学の意義を認めた。そして、この「新文学史」叙述の作業を通じて、朝鮮王朝時代に、ハングルで創作された時調、歌辞、唱曲、小説などを民族の古典として評価するにいたった。つまり彼は、中世において、漢文/国文という二重の言語生活、二種類の「文」をもった状態を、「正」と「反」の対立し矛盾した状態としてとらえ、近代以降の新文学がその状態を止揚する「合」の状態であることを示そうとした。 Ⅶ章では、林和が「新文学史の措施」(1940.1)で言及したH・テーヌの議論が、同じ日本の植民地にあった台湾において、台湾文学を説明する概念として言及されている事例を検討し、そのことを通じて、林和が「新文学史の措施」で指摘した、文学生成の場としての「環境」がいかなるものかを考えた。テーヌの「環境」概念は、ヨーロッパにおけるナショナリズムに対するさまざまな反省的世論のなかで、比較文学という知の制度によって克服されたはずだったが、帝国日本のアカデミズムが植民地の文学を認めようとしなかったとき、その抵抗の手段として植民地知識人によって再び持ち出されたのであった。台北帝国大学教授の島田謹二とその弟子である台湾人批評家・黄得時の角逐がまさにそのようなやりとりであった。黄得時と同様、林和もこのテーヌの措施論を援用し、時にみずからその説明を緻密化しながら、朝鮮の新文学を語り、また東アジアの文学史における「朝鮮」を主体化した。このような点で、帝国日本の植民地であった朝鮮と台湾で、H・テーヌの文学史措施論や文化理論が、同じ1940年前後に呼び出されたことは決して偶然ではない。 Ⅷ章は、林和の映画論について議論する。彼の映画論は、リアリズム小説論や「新文学史」執筆での検討と同様、主体としての「民族」をつねに考慮したものであった。林和は植民地朝鮮の映画について、独自の議論でその歴史の変遷を説明し、また著作の主題において民族の主体を確保しようとした。林和によれば、朝鮮における映画は「模倣」や「移植」の対象を見つけられずにいた。映画というジャンルだけは事情が異なり、商業や演劇の隆盛を前提として、近代期になって初めて成立したジャンルであった。林和はここで、草創期の朝鮮映画においては文学が重要な「援助者」の役割を果たしたと指摘する。だが、彼は映画『福地萬里』(1941)に対して、その評価こそ否定的だったものの、その基準において、以前、李泰俊の短篇「農軍」(1939.7)のときと同じ態度を示した。大陸を流浪する朝鮮人労働者の流浪を描いたこの映画は、内容としては大日本帝国や満洲帝国の当時の国策=五族協和の理想を体現したが、林和はこの著作の限界について指摘しながら、その判断の基準として著作の叙事詩的な到達度について言及した。つまり、朝鮮民族の民族移動を叙事詩的な画幅で捉えることもできたというのである。林和がかつて芸術大衆化論争のとき、自らの物語詩の舞台として選んだのは、ソウルの鍾路や玄海灘という、革命性や植民地性が前景化された場所だった。しかし、植民地末期において、林和は、日本、朝鮮、満洲という舞台を流浪し放浪する朝鮮人に、ある一個人の運命ではなく、ひとつの「集団」、ひとつの共同体の運命を見ようとした。このことは林和が民族という主体をとらえる果てに行き着いたひとつのアイロニーであった。 林和は、植民地朝鮮において、プロレタリア詩、リアリズム評論、文学史論、映画論など多方面にわたって数多くの作品を残した。そこに見られる「主体」の捉え方は、さまざまなレベルにおいて観察され、またそれは時代によって少しずつ推移する。それは基本的に現実を矛盾の関係としてとらえ、それが対立し止揚されることによって歴史が進むことを、革命的前衛として時に観察し、時にその動力の主人となる「主体」であった。しかし、その「主体」は、さまざまな矛盾をはらむ民族の主体として定立されたとき、同時に帝国の論理を内面化するものともなった。

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